女の子の、女の子による      女の子のための、




うかれる街々の甘さに辟易しつつも、何かしらの期待を持ちつつ文次郎の部屋に訪れた。だが、私を迎えた文次郎はというと、いつもと変わらずに「おぉ」と言っただけだった。その変らなさぶりに腹が立った。もしかしたら、と思っていた自分の甘さと、ちっとも気付いてないこの鈍感男の両方に、だ。募る苛立ちをぶつけるように「腹が減った。天ぷらが食べたい」と言い放ち、部屋に上がり込む。文次郎は、どうせいつもの我儘だろう、と捉えたようで、何も言わなかった。それがまた、ムカついた。

自分よりも大きなビーズクッション(気持ちよくて、文次郎に買わせた)に体を沈ませて、雑誌(これも文次郎が買った)を片手に、ラグの上で寝転がって(文次郎が買った、感触が最高の)いると、電話(文次郎の家の)が鳴り出した。しばらく無視してれば、

「悪ぃ、電話に出てくれ」

キッチンとを隔てる玉すだれの向こうから、文次郎が大声で言ってきた。

「ふん。何で私が」
「今、手が離せないんだよ。お前の方が近いだろうが」
「面倒だ」
「お前、人に飯作らせといて、それはねーだろ」

音を立てて落ちてくるすだれを抑えながら、文次郎が顔を出した。奴の片手にある菜箸は、揚げ油のせいだろうかテカテカと艶めいていた。その向こうから微かに聞こえてくる、ジュゥゥ、パチパチ、という破裂音と、ねっとりとした油の匂いに、唾を嚥下する。腹に何かを入れれば、少しはこの気持ちも落ち着くだろうか。

「あいつらじゃないのか」
「あいつらだったら、携帯だろ」
「なら、勧誘だろう」
「そんなに文句を言うなら、じゃぁ代わりに火を見てろよ」

その言葉に電話に出るのと天ぷらを揚げるのとを天秤にかけ、仕方なく少し離れた所にある電話の子機に、にじり寄った。そんな会話の間もずっと鳴り続けていたコール音に、かけてきた人の確固たる意志を感じる。何が何でも話をするのだ、という。

「もしもし、」

受話機に零したかなりやる気のない声は、は、っと息を呑むような音にかき消された。
沈黙に紛れ込む、ざぁぁ、と乾いたノイズが耳を突く。無言という静けさが紡ぐ居心地の悪さ。なら早く切ってしまいたい、という衝動を抑えて、間違い電話かもしれないと念のためもう一度「もしもし」と投げやった。

「……あの、潮江くんの、潮江文次郎くんの、お宅でしょうか」

今度は、こちらが黙り込む方だった。はっきりと私に飛び込んできた覚悟を決めた声。瞼裏に、電話機を握りしめている、見ず知らずの女の子が浮かび上がった。一瞬、「違います」って切ろうか、なんて考えが過った。

(…告白、か)

見た目も言動もおっさん臭いところはあるが、男気ある、と密かに憧れられていることは知っていた。ただ、実際に、面と向かってそういう場に居合わせたことが今までになかった。相手の心臓の音すら、そしてこちらの息を飲む音するあ聞こえてきそうな静けさが、ラインの間に横たわる。「いません」とか「違います」とか「今日は返ってきません」とか脳裏を巡る駆け引きの言葉は、けれど、どれも言葉にならなかった。向こうも、それ以上、言葉にならないようで、砂嵐のようなラインが混線する音だけが耳を穿った。ただただ、砂漠のように乾いていく唇が痛かった。気の遠くなるほどの長い時間、私たちの沈黙を打ち破ったのは、文次郎の声だった。

「仙蔵、何だって?」

受話機を掴んだまま呪縛されたように固まっていた思考が、一瞬にして、解けた。

「あ、……はい。ちょっと、お待ちください。代わりますね」

保留ボタンを押すのと、のれんをくぐってキッチンから文次郎が出てくるのは同時だった。料理はひと段落ついたのか、さっきまで聞こえていた油の跳ねる音はなく。食欲をそそる匂いが、まだ冷めやらぬ熱を持って伝わってくる。

「お前に電話」
「誰からだ?」
「知らない。喜べ、可愛い女の子だぞ」

可愛い、に力を込めて投げつけるように子機を渡すと、文次郎は「ふーん」と軽くかわして受け取った。

「あぁ、…うん、うん。……今から? あぁ、わかった」

その場で話しだす文次郎に、つい、聞き耳を立ててしまう相手の声は全然聞こえないのに、文次郎の言葉から、色々と想像してしまう。そんな自分が馬鹿みたいで、さっきまで見ていた雑誌をもう一度手に取るけれど、どこから目を通したのか。さっきから同じところを読んでいるのか、いないのか。ページをめくってみるけれど、ちっとも、内容が入ってこない。

「じゃぁ」

ピッ、と軽い電子音がして、慌てて雑誌のページをめくって、そこに目を落としつつ。けれど、意識の方は奴の行動を、ついつい、追ってしまう。視界には入っていないのに、頭の中ではこれでもかというぐらい鮮やかに奴の姿が浮かんだ。何事もなかったかのように子機を戻して、部屋の奥の壁に吊るしてある紺色のコートを手に取って、

「悪ぃ、ちょっと出てくる」

思わず雑誌から顔を上げていた。文次郎と目が合ったが、喉まで出かかった、奴を引きとめる言葉は、プライドに押しつぶされた。代わりに出てきたのは「天ぷらは?」という、自分でも思う、可愛げのない言葉だった。

「もう、できてる。先、食ってていいぞ」
「そんなに掛かるのか?」
「さぁ? 何の用か分からねぇしな。用件聞いても、電話じゃ、って言われた。すぐ傍の公園まで来てるんだと」

用件なんて明白だ。2月の14日。考えれば彼女の用件なんて一つしかないというのに。どこまでも鈍感な男だ。けど、そんなこと、口が裂けても言うことができず、私は「そうか」と相槌を打つに留めた。

(ふん、全く、なんでこいつが好きになったんだか)

コートの袖に手を通して、すぐに行くかに見えた文次郎は突っ立っていて。そのまま、こちらの方を、じっと、見つめていた。注がれる奴の視線に「何だ?」と問えば、しばらく文次郎は困ったような表情を浮かべていた。

「なぁ」
「だから、何だ?」
「誰だ、って聞かないんだな」
「今日は、女の子の、女の子による女の子のための日だからな」
「は? あぁ、今日、バレンタインか」

壁に掛かっているカレンダーに目をやると、文次郎は合点がいったかのように頷いた。どうやら、本当に彼女の用件に気が付いてなかったらしい。実際、今日がどんな日か分かった所で、その意味が分かっているのかと問われたら怪しい。

(まったく、もの好きもいるものだ。こんな奴を好きになるのが、私以外にもいるとはな)

そう思えばアホらしくもあり、けど、やっぱり、この苛立ちは収まりそうもない。

「……早く行ってこい。早く帰ってこないと、天ぷらがなくなるぞ」
「なぁ、仙蔵。それってさ」
「…何だ?」
「もしかして嫉妬してる?」

見透かされたのが悔しいような、けど少しだけ安堵したような、よく分からない気まずさに襲われる。どりあえずからかい気味の文次郎を「うるさい……」と睨みつけて、それから、ぎゅぅっと、目の前の文次郎に抱きついて。耳元で囁く。「早く断ってこい」と。

(柄じゃなくて悪かったな)



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