※転生パロ・シリーズとは別軸です

スクリーンから届く青白い光が仄かに兵助の顔を照らし出していた。まるで夜明けの底にいるようだった。闇が朝に溶けだして辺りを蒼く染め上げていく一時。遠い遠い昔、そう『あの頃』、閨を共に過ごした後に彼の部屋を出ようと振り向いた時に、何度、そんな蒼に眠る兵助を見ただろうか。何度、その姿を愛しいと思っただろうか。感慨に耽っていると、ふ、とそれまで流れていた音楽が別のものに変わったのが分かった。ちっとも話に集中してなかったからよく分からねぇけど、きっと、場面が変わったのだろう。小さな音響設備から密やかに届く異国の言葉は意味をなさず、ただただ、俺を『今』に繋ぎとめているものに過ぎなかった。

(思い出して、ほしい)

胸に軋むような祈りを抱いて、俺は傍らで映画を魅入っている兵助をずっと見続けていた。






***

町の外れにある小さな映画館にリバイバル作品が来ていると教えてくれたのは、三郎だった。普段はシネコンとかで最新の話題作とかアクションとかを兵助や他のメンバーとみんなでぎゃぁぎゃぁと見に行くことが多くて。だから、頭の中に疑問符が浮かんだ。何で、三郎は俺に勧めてくるんだろう、って。けど、そのタイトルを聞いた時、あぁ、と腑に落ちた。

「……兵助と一緒に見ろって、きっつい冗談だな」

二枚のチケットに記された題名は、俺の記憶が正しければ俗に『生まれ変わり』と言われるものだった。古今東西使い古された純愛のテーマ。名作と言われるそれは、けれど、俺たちにとって単なる一作品になりえないことは、三郎にも分かってたはずだった。俺が持ち合わせている『あの頃』を、兵助は何一つ覚えていないのだから。だから、痛む胸を宥めながら息を吐き出しつつそう答えると、三郎は唇を薄く歪めた。

「冗談でも何でもないさ」

昼休みの屋上は、季節柄のせいだろうか、俺と三郎以外には誰もいなかった。もたれかかったフェンスの向こうに広がる空は、鏡のように磨かれた硬い青。半分錆びついて塗料が剥がれかけている網に指を掛け、校庭を見下ろすと、楽しそうな弾けた嬌声が聞こえてくる。この寒いのにサッカーボールに戯れているのは後輩たちだろうか。乾いた風が砂埃を撒き散らしていて、なんとなく空気が白んでいる。

「だったら、何だって言うんだよ? 三郎」
「いつまでも女々しく悩んでるからな。これでも二人で観て、あわよくば思い出してもらえって」
「…そんな上手くいくわけねぇだろ。これ以上嫌なんだよ」
「何が」
「もしかしたら思い出すかもって期待して、そんで裏切られるのが」
「あーもー、ホント、ぐだぐだと鬱陶しい奴だな」
「鬱陶しいって」
「『あの頃』のお前だったら、もっと意気地があっただろうけどな」

挑発的な眼差しが俺を絡め取る。一番比べられたくないことを言われ、ふつり、と怒りが沸き立った。どうしようもない、苛立ち。三郎に手を出しそうな衝動に、ぐ、っと掌を握りしめて皮膚に爪を立てて堪える。フェンスから解いた指先に貼りつく錆び。鉄の匂い。血の匂い。『あの頃』じゃねぇのに、すぐ、こうやって簡単に結びつく。俺にあって兵助にないもの。何を見たって聞いたってしたって、結局、そこに行き着く。排水溝に吸い込まれていく水みたいに抗えねぇ。頭が痛い。辛うじて「お前に何が分かるんだよ」と吐き出すと、三郎の眼光が強くなった。

「気持ちなんか分かるかよ。そんなの皆同じだろうが」
「だったら、」
「けど『生まれ変わったって、俺は兵助を好きになる』なんて、そんなこっ恥ずかしいこと言えるのは、そんなのはハチ、お前だけだ、ってことは分かる」

ぐちゃぐちゃのチケットが俺の手に押しつけられた瞬間、背後の重たそうな扉が放たれた音が響き渡った。「あ、いた」と伸びやかな声が俺らの空気を緩める。そのまま三郎は「お、雷蔵。兵助と勘右衛門は?」と体を雷蔵の方に向けた。「授業のノート、提出してから来るってさ」という雷蔵の言葉に続いて、階段から二人の足音が聞こえてくる。どうしようもできなくて、結局、俺は受け取ったチケットを、そのままズボンのポケットに突っ込んだ。






***

さんざん迷って、俺がそのチケットを手に兵助の元を訪れたのは興行の最終日だった。

「映画?」
「そう。チケット貰ったからさ」
「いいけど、何、観るんだ?」

最近何か面白いのあったっけ、とひとりごちる兵助に、皺を伸ばしたチケットを見せて、そのタイトルを告げる。何かを察するだろうか、と彼に視線を注いだけれど、特に変化はなかった。チケットを一瞥した視線をそのまま自身の腕時計に動かし、「これ最終上映もうすぐだろ。急がないと」と先を歩きだした。慌てて、チケットをしまい、その背中を追いかける。

「うー、寒みぃ」
「今夜、雪が降るかもって」
「まじで?」

兵助の言葉に、マフラーに首を埋めながら、ちらりと視線だけを天にもたげる。所々、うっすらと氷のように薄い灰色の雲が空に被さっていた。まだ早い時間だというのに日はすでに傾きかけていて、光を炎に変えて淡い橙色を灯していた。ジャンパーの僅かな隙間から入り込む冷気に粟肌が立つ。時折、唸るように吹きつける空風に、散り散りになった落ち葉が巻かれ込んで舞い上がった。踊り子みたいにくるくると回って、そして、また別の場所に流されていく。踏みしめるたびに、足元から乾いた音が割れるのが伝わってきた。隣を歩く兵助が白くなった指先をこすりあわせながら「手袋してこればよかったな」と零した。

「手、繋ぐか。ちょっとは暖かくなると思うけど」
「え、いいよ。恥ずかしいし」
「いいから」

前後に揺れていた彼の左手を強引に引き寄せる。触れた瞬間、その冷たさが掌に刻まれ、彼との境界線がはっきりとしているのが分かった。骨々しい関節をなぞり、そのまま自分の指と指との間に絡め取った。力をそこに込めると、俺よりも少しだけ細い、その指がぎゅっと握り返してきた。じん、と皮膚が痺れるのが分かった。この体温も、この指の形も、俺は知っている。知っていた。全部、覚えている。忘れることなんてなかった。消えることなんてなかった。兵助の全てが俺の中で息づいているのだ。

(なのに、なんで兵助は覚えてないんだろう)

彼が『あの頃』俺に囁いてくれたいくつもの睦言は、まやかしだったんだろうか。兵助の中に、俺はいないのだろうか。分かっていた。そんなことで、兵助を責めちゃいけねぇって。偶然なのだ、自分に記憶があるのは。もし逆の立場だったら、兵助にこんな辛ぇ思いをさせなきゃいけないなら、と思うとこれでよかったと思う。『あの頃』を覚えているのが俺でよかったと思う。けれど、どうしようもない、痛みが俺を襲うのだ。感じずにはいられねぇのだ。心が酷く凍みるのを。






***

映画館は閑散としていた。そういえば自分もここに来るのは初めてだった。ミニシアターというよりは昔ながらの単館映画館といったところだろうか。上映する部屋はまだ寒いから、と穏やかな笑みを浮かべた老主人の言葉に従い待合室にぽつんと置かれていた鶯色のソファに身を沈める。なんとなく、ベルベットのような深い色調を保つ布地に爪を引っ掻いて遊んでいた。兵助はというと、部屋の中央に今時珍しい達磨ストーブを見つけ、すぐさまそこの傍に屈みこんだ。柔らかな赤に手をかざし、表裏とひっくり返しては、温めているようだった。しゃべり掛けようと思って、けど、喉が洩らしたのは空気だけだった。何でか、上手く言葉が紡げない。

時間だからどうぞ、と促されて中に入る。ぽつんと置かれた小さなスクリーン。他に誰もいない客席。ど真ん中に腰を据えると、すぐに、ふ、と闇が落ちてきた。映写機の回る音。フィルムが何回も使われているせいだろうか、ぽつぽつと黒い斑点が飛んだかと思うと、急に白っぽく霞み、映画は静かに始まった。

白い肌を深く浸食する影に彼がどんな表情をしているのかは、あまり分からなかった。けど、まっすぐ見据えた目には、蒼い光が灯っていた。画面が目まぐるしく変化して光源が変わっていく中で、それも増長したり途切れそうになりながら、けれども、ずっとそれは兵助の瞳に息づいていた。まるで、焔のようにゆらゆらと。兵助は、いったい、何を見つめているのだろう。『今』だろうか、それとも『あの頃』だろうか。

(なぁ、思い出してくれよ)

と、それまで、ぐ、と切り結ばれていた兵助の唇が、不意に緩んだ。半開きの口から空気が震えそうになるのを、俺は、ただ、見つめていた。何て言おうとしてるんだ? 思い出したんだろうか? 期待と不安が交錯し、じわじわと耳の裏側を浸食していく鼓動が煩い。永遠にも一瞬にも感じれる時が流れて。

「ハチ、映画に集中しろよな」

絞られた声に含まれているのは呆れだけで、俺はそっと瞼を下ろした。『あの頃』を閉じ込めるために。






***

外に出ると、すっかりと、夜が空を呑みこんでいた。ぼってりとした分厚い雲が空を覆っている。今夜はやっぱり雪だろうか。さっきよりも幾段と厳しくなった風が頬を切りつける。そこだけじゃねぇ、耳や手といった冷気に晒された部分がじんじんと痺れる。けれど、そこよりもずっと悴んで動き出せないのは、心だろうか。とうとう、兵助が『あの頃』を思い出すことはなかった。

(もう、忘れなきゃな。『あの頃』の兵助を)

どれだけ希っても兵助が思い出すことはないのだ。ならば、いつまでも『あの頃』引きずるなんて不毛だ。記憶を塗りこめて、心の奥底に沈めて、忘れて、消し去らないと。

(『あの頃』の兵助は、もう、どこにもいないんだ)

ふ、と掌に温もりが重なった。思いがけないことに、一瞬、何が起こったのか分からなかった。視線を下ろすと、兵助が俺の手を握っていた。いつだって手を繋ぐのは俺からで、兵助からは握り返してくるだけなのに。どうしたんだ、と思い「兵助?」と見遣ると、彼はぽつりと呟いた。

「なぁ、ハチ。2/6000000000ってすごいな」
「え?」
「生まれ変わりがあるかどうかなんて、分からないけど。けど、もし、さ」

俺の手を握りしめる兵助の力が強まった。溶けあう熱に、薄れていく境界線。全部、覚えている。やっぱり、忘れることなんてできねぇ。消すことなんて、できねぇ。兵助の全てが俺の中で息づいているのだ。俺の中に兵助が。『あの頃』も『今』も、そして『これから』も。

「もし、生まれ変わっても、俺は絶対ハチを好きになるよ」

あぁ、と俺は泣きそうになりながら兵助の手を、その愛しい人の手を、ぎゅ、と握り返した。











(その言葉があれば『あの頃』が共有できなくても、『今』を『これから』を、共に生きていける)
2/6000000000の奇跡








title by キンモクセイが泣いた夜