※転生パロ。兵助だけ記憶がありません。勘ちゃんが友情出演。




時々、ハチは遠いところを見つめている。

ここではない、もっと、ずっとずっと遠いところ。眼前にいる俺をその目に映してはずなのに、その瞳に彷徨う翳はあまりに色濃く、そして、深かった。朝方に取り残された星みたいに、確かにそこにあるのに、決して手の届かないもの。いつの間にか、光の中にかき消されていくもの。俺にとってその翳はそんな存在だった。ハチにその翳が過る度に、俺は何も言えなくなる。手を伸ばせば掴めるほどすぐ傍にいるのに、ただ、その翳を眺めていることしかできないのだ。--------『あの頃』を俺は知らないから。

そんな時、俺はきまって死の淵に滑り込んでしまったかのような、冥い淋しさに覆われた。

切ないのは君の思い出の中にいる私



テスト期間中だというのに図書館は思ったよりも人が少なかった。高校レベルでは随一の蔵書数を誇る広い館内のせいで、暖房があまり効いてないからかもしれない。試験期間中は部活が停止しているからだろう、普段なら微かに聞こえてくる吹奏楽のメロディも野球部の気合の入った叫び声もなく、ただただ単調なエアコンの稼働音がうっすらと耳に積っていく。ふ、と顔を上げれば、窓の向こうでは、夕暮れ時が追いやられ、どろりとしたタールのような闇に燃え立つように赤が一鱗だけ煌々と輝いていた。窓ガラスに自分の輪郭がはっきりと描かれているけれど、全然知らない人物のような気がして。得体の知れない恐怖に突き動かされるように、俺は目の前にいた勘右衛門に話しかけた。

「なぁ、勘右衛門」
「んー?」

目の前のテーブルで英語の勉強をしていた彼は生返事だったが俺は構わず「あのさ『兵助』ってどんなやつだった?」と問いかけた。彼の握っていたのシャープペンシルの芯がぽきりと折れ、ノートに流暢に綴られていたアルファベットが引っ掛かるようにして途切れた。aがoに見えるそれを視界の隅に置きながら、もう一度尋ねる。

「勘右衛門は知ってるんだろ。『あの頃』の俺。どんな奴だった?」
「どうしたのさ、今さら」

ノートから顔を上げた勘右衛門は小さな子どもみたいな、まあるい目をしていた。不思議なものを見つけた時のような、素朴な疑問を抱いた時のような。けど、俺には幼馴染の勘右衛門の言葉が皮肉にしか聞こえなかった。今さら、そう、今さらだった。それこそ生まれた時から一緒にいた勘右衛門をはじめ、周りにいた友人や後輩らが語ってきた『あの頃』について、これまで突っぱねてきたのだから。

「どうしたっていうか…」
「ハチのせい?」

勘右衛門の声が、少しだけ大きくなったような気がした。傷ついている、というわけでもなく、面白がってるわけでもなく、ただその微笑みが淋しそうに見えた。ほんの一瞬だけだけど。

「ごめん」
「いいよ。兵助が謝ることじゃない」
「けど、」

まだ謝罪を言い募ろうとする俺を勘右衛門は「ハチに『あの頃』の事で何か言われたの?」と遮った。

「いや。むしろ、逆」
「逆って?」
「最近、あんまり言わなくなったんだ」

高校で出会ったハチは最初から俺のことを『兵助』と親しげに呼んだ。もちろん、俺はハチのことなど全然知らなかった。ただ、ピンときた。勘右衛門たちが口にする『あの頃』と呼ばれる、生まれ変わる前の知り合いなのだろう、と。正直、また厄介な奴が増えた、という感想しかなかった。そいつは自分を知っているのに、自分は何も知らない、その絡みつくような息苦しさをまたしなければいけないのか、と。『あの頃』を口にする連中らに悪気があるわけじゃない、というのは分かっていたから口にすることはなかったけど、その、靴の中に小石が入っている時のような、どうしようもない居心地の悪さを拭うことはできなかった。

けど、ハチは他の奴とは違った。

ハチがいれば『あの頃』の話題もそれほど疎外感を覚えることがなかった。俺になんとかして思い出させよう、そんな気概がハチから伝わってくるからかもしれない。それでも、ハチが『あの頃』のことを口にしなくなったのには、心が凪いだのが分かった。思い出そうにも、そもそも記憶そのものが存在しないのだ。ないものから生み出すものことほど難しいものはないと思う。だから、最初のうちは、安堵していた。それはまやかしだと、すぐに気付いたけど。

どれだけ『あの頃』を口にしなくなっても、ハチが静かに『あの頃』に還っていることがあるということは目に見えてはっきりとしていた。なぜなら、あの瞳に宿る翳が消えることはなかったから。その度に俺は軋むような痛みを、冥い淋しさを、ただ独り、この身に抱えるしかなかった。

「そうか。それで?」
「……怖いんだ」
「怖い?」
「ハチが見てるのは、俺じゃない、んじゃないかって」

俺の声は、がさがさと乾く喉に張り付いてしまって、それで千切れるようにして唇から零れ落ちた。手持無沙汰というよりも何か別事をしていないと、不安の渦に引きずり込まれそうで、ノートに散らばっている消しかすを集めてこねくり回しながら呟く。勘右衛門に、というよりは自分に向けて。

「ハチはすごく大切にしてくれる、よ。けどさ、その優しさは俺に向けられてるんじゃない気がするんだ」
「兵助……」
「ハチの気持ちは『あの頃の俺』に、『あの頃の兵助』っていう存在に向けられてるんじゃないかって」

自分でも馬鹿だと思う。自分自身に嫉妬、だなんて。けれど、ふとした瞬間にハチの瞳に過る翳を、そこに宿る深い色を見るたびに、どうしようもなく泣きたくなるのだ。どうやったって敵わないような気がするのだ。全く知らない『あの頃の久々知兵助』には。

(目の前にいるのは、『今の俺』なのに)

勘右衛門は何も言わなかった。彼の切り結んだ唇は困ったようにひん曲がっていて、軽く目頭をつまむようにして押さえていた。窓から差し込む僅かな残照が勘右衛門に深い影を抉り出していた。ほどなくして、絞り出すように彼は呟いた。

「ごめん、兵助。俺は、何とも言えない」
「こっちこそ、ごめん」

慌てて手を振り、明るく聞こえるようにわざと声のトーンを高くして答えた。それから、散らばっていた筆記用具をかき集め「そろそろ帰ろう」と勘右衛門を促す。あぁ、と彼は呟き、のろのろと立ち上がった。しばらく黙ったまま二人片づけをし、広がっていた辞書を閉じた勘右衛門が、ふ、と顔を上げて俺を見遣った。

「兵助」
「ん?」
「『あの頃』も『今』もよく知ってる俺たちからすれば、お前たちはやっぱりお前たちだよ」

勘右衛門の精一杯の優しさに、俺は「ありがとな」と、口角をできる限り上げて答えた。


***

学年末の試験が終わり、ほ、っと息をついていると、さっそくハチから遊びに誘われた。時間5分前に待ち合わせの駅前のロータリーに行けば、めずらしくハチの方が先に来ていて。ついつい「明日は雪かもな」とからかえば「え、そうなのか?」と真面目な顔つきでハチは空を見上げた。その行動に笑いをかみ殺しつつ、俺もハチと同じように視線を宙へ転じる。ビルの合間に落ちてきた風は冷たさの底を浚うように凍てついていたが、建物の頭上に広がる空は随分と甘やかな色合いをしていた。もうすぐ春が来る。ハチと出会って二度目の春が。

「兵助、どっか行きたい所、ある?」
「んーどこでもいいよ。ハチは?」
「俺、市立博物館に行きたいんだけどさ」

ハチの口からそんな場所が出てくるとは思いもよらず、食い入るようにして彼の顔をまじまじと見てしまった。さすがに「え」と声に出すことはしなかったけれど、その気配が伝わったのだろう、ハチは軽く頬を膨らませて拗ねたポーズを取った。

「んな驚くことねえだろっ」
「悪い悪い。けど、ゲーセンとかカラオケとかそんなん思ってたからさ」
「それでもよかったんだけど、どうしても見たい企画展があったんだよ」

三郎らだと爆笑した挙句に付き合ってくれないだろうからさ、と零すハチに「どんな内容なんだ?」と尋ねれば、んーとすこし渋るような仕草を彼は見せた。それから、鞄の中をしばらく漁り、端が折れ曲がったチラシを俺の方に差し出した。見たこともない形容のイラストの上には「太古の生き物展」と、いかにもハチの好きそうな展示名が踊っている。その下の開催期間が目に入った。俺たちの試験期間中に始まっていたそれは、来週いっぱいまでの日付が書かれていた。ちらり、とハチが俺の方を覗うように見遣った。

「カラオケとかの方がいいならそうするけど」
「ん、いいよ。ハチ、見たいんだろ。付き合う」
「ありがとな」

瞳に輝きを宿し、皓い歯を見せて嬉しそうに笑うハチに、自然と俺の唇が緩むのが分かった。ハチの笑顔は不思議だ。こちらまで笑いたくなる。心がほわほわと温かくなる。弾むような心持ちのそのままの流れで「本当にハチって生き物が好きだよな」と言えば、ふ、と彼の目にあの翳が落ちた。ぐるり。彼の目には俺がくっきり映っているけれど、心が『あの頃』へと還っていっているのは、一目瞭然だった。俺の中でさっきまで膨らんでいたものが一気に萎み、氷を呑みこんだ時のような、冷たいはずなのに灼けるような痛みが俺の中で疼いた。

(ハチが見てるのは、『今』の俺じゃない)

ぐ、っと唇を噛みしめる。乾いた北風に叩かれた頬がぴりぴりと裂けそうになる。ハチが見ている『あの頃』をなんとか捕えようと必死に凝視する。目を閉じた瞬間に消え落ちてしまうんじゃないか、と思うと秒速よりも小さな単位のまばたきでさえするのが憚れた。

--------------『あの頃』の俺に囚われているハチ。『今』のハチに囚われている俺。

馬鹿みたいだけど、それが俺たちの関係だと思う。その場から動けずにいる俺たちを動かしたのは、大きなクラクション音だった。目の前を一台のバスが悠々と通っていく。ロータリーの端にある停留所へと滑らかに寄せられていくのを見て、慌てて彼を揺さぶる。

「ハチ!」
「あ、……悪い。ぼーっとしてた。何?」
「バス、来てる。市立博物館方面ってあの系統だろ」
「お、やべ」

そのままバスへと駆けだそうとしたハチは「行くぞ、兵助」と俺の手を、ば、っと掴んだ。この体に伝う熱は現のもので、すぐ傍にハチはいる。そう分かっているのに、幻のような気がして、俺はその存在を確かめるようにハチの手をぎゅっときつく握りしめた。

(『あの頃』も、こうやってハチに手を引かれたのだろうか)



***

「結構、すごかったな」
「おー。つーか、兵助の方が魅入ってたよな」
「滅多とない機会だし。面白かった。誘ってくれて、ありがとうな」

恐竜展とでもなれば子連れなんかもいるのかもしれないが、いささかマイナーな展示内容のせいか、あまり見学者は多くなかった。一つ一つの展示物を見れたという点ではよかったのかもしれないけれど。ハチの付き添い、という程度の認識でついてきたけれど、内容が思った以上に面白く、パネルやショーケースの前から動かない俺を「兵助、行くぞ」とハチが促すことこともしばしばあった。

「兵助にそう言ってもらえてよかった。この後、どうする?」
「んーちょっと座りたいかも。ずっと、立ちっぱなしだったし。どっかに休憩スペースなかったっけ?」
「座る所なー。あ、あそこは?」

ハチが指差した方向を見れば、天井から色褪せた看板がぶらさがっていた。そこには『プラネタリウム→』の文字。博物館の付属施設であるそこなら、確かに座れるだろう。と、タイミング良く『まもなく、プラネタリウムの最終上映が始まります』と館内放送が流れた。

「ちょうどいいじゃん。座れるし、静かだし」
「いいけど、ハチ、寝るなよ」
「寝ないって。……多分」

多分かよ、とハチに突っ込みを入れ、俺は矢印の方向へと足を向けた。

プラネタリウムの中に入ると、まだ橙色のあかりが丸いドーム全体に灯っていて、白いスクリーンにも何も映っていなかった。さっきの企画展よりはずいぶんと人も多く、浮き立つような子どもたち声もあちらこちらからたくさん聞こえてくる。

「そういえば、プラネタリウムなんて小学校の社会見学以来かも」
「あー。俺もそうかもな」

子どもたちがうろついている真ん中辺りを避け、円の外側の椅子を選んで座った。深々とした背もたれに、座るというよりは寝ころぶに近いのかもしれない。普段とは違う、角度のある平衡感覚に体がふわふわする。しばらくハチの小学校の社会見学の時の逸話を聞いていると、やがて、人工的な暗さが包みだし、うっすらとドームを覆っていたざわめきも薄れていった。

『本日の空を見てみましょう』

まるで子守唄を歌うかのような柔らかなナレーターで始まったそれは、ゆっくりとこの街の全景を夜に沈め、そこに星を灯しだした。偽物だと分かっていても、一つ二つ、と増えていく星は美しく、さんざめく光に、ほぉ、と感嘆が自然と漏れた。


***

「うー、寒い」

プラネタリウムを見終え、他の展示物を見て回っていれば、いつのまにか閉館時刻となっていた。追い出されるようにして出た外はとっぷりと日が暮れてしまっていて、皮膚が切れそうなほど凍てついた風が吹きさらしていた。暦の上では春とはいえ、まだ当分と冬は居座るのだろう。寒い寒いとずっと零し続ける俺に、ハチは手を差し出した。

「手、握ったら少しは温かいけど」
「んー。いいや、恥ずかしい」

いつものように天秤にかけることもなく即答で断れば、ハチは少し苦笑いを浮かべた。元々、手を繋ぐなんてことをあまりしない方だった。暗いとはいえ人目のある外で、ましてや俺から手を繋ぐ、なんてとありえない、そう分かっている表情だった。ハチは視線を俺から空へと移した。

「あ、寒いけど、星は綺麗だぞ」
「確かに。空気が冴えてるからかな」

新月に近いせいか今宵はずいぶんと闇が深く、隣にいるハチですら暗みに染まってはっきりとした面立ちは分からない。その分、プラネタリウムで見ることのできた星屑を撒き散らした、とまではいかないものの、普段よりもずっと多くの星が囁いているようだった。

「えっと、あれが、オリオン座か?」
「どれ? ハチ」
「ほら、そのビルの右のさ。三つ星があるし」
「あ、分かった。あ、じゃあ、あれがシリウスだな」

所々で空を切り取っている高いビルから目測して、さっきプラネタリウムで教えてもらった星や星座を探す。時には目印になるものがなく「どれ?」「ん、それ」「んー、あ、これか」なんて、本当に同じものを見ているのかは怪しい星もあったけど、同じ空を見てるんだ、そう思っているうちに自然と心が温かくなってくる。

「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。ってことは、あれが北極星ってことか」

俺もハチと同じように星と星の間隔を5つ分測って探しだした。北極星。他の明るい一等星なんかと比べれば、それほど目立つ星ではない。けれど、俺たちが生まれる前から、それこそ『あの頃』よりももっともっと遥か昔から人々の中心になってきた星。

「430年前の光、か」

ぽつり、とハチが呟いた。『今』、俺たちが見ているのは『あの頃』の光だという。俺たちが巡り合い、共に生き、そして死んでいった『あの頃』の光。ハチはどんな気持ちであの光を見ているのだろう。やはりあの翳があるのだろうか、と俺はそっとハチの方に視線を忍ばせた。

(あぁ、------そうか)

ハチの瞳に翳はなかった。それよりも、もっとずっと冥いものがそこに潜んでいた。それを見た瞬間、ようやく分かった。俺が怖がっていたものの正体が。息をするのも苦しいぐらい切ないわけは、確かに、ハチが『あの頃の俺』を想っていることだった。思い出に残る俺を、追憶の果てにいる俺をハチが恋慕していることが哀しかった。けど、もっと怖かったのは、あの死に眠るような淋しさの正体は、それだけじゃなかった。

(ハチの痛みをどうやったって分かつことができない、そう思っていたからだ)

あの翳が彼の目に宿っている時に、声を掛けることもできない、手を握りしめることもできない。『今の俺』には何もしてやることができない、そう信じていた。けど、そうじゃない。確かに、『あの頃の俺』には、彼の思い出の中にいる俺は、ハチに何もしてやれないかもしれない。

(でも、『今の俺』にはハチにしてやれることがある)

ハチの温もりを、彼の掌を俺は握りしめた。ハチの指先が驚きに少し跳ねて、けれども、そのまま俺に委ねるように力が抜けていった。馴染んでいく温かさを握りしめれば、ハチもまた、ぎゅ、と握り返してきた。しばらくして空気が揺れた。「あのさ、」と視線を天に縛り付けたままのハチが話しかけてきた。

「今日、言ってただろ。12000年後にはこと座のベガが北極星になるって」
「あーそんな事、言ってたな」
「見てみたいよな。ベガが北極星って」
「12000年後って絶対生きてないけどな」
「けど、見てみたい」

話がどこへ向かっていくのか分からず、俺は「あぁ」とだけ相槌を打った。また、しばらく沈黙が満ちる。

「兵助、もし、の話な」
「あぁ」
「もし、だぞ。もし」
「あぁ。もし、何なんだ?」
「もし、12000年後に生まれ変わったならさ、その時も俺はやっぱり兵助の隣にいたい」

俺は返事の代わりに、柔らかく微笑むハチの背中に手を回し、ゆっくりと彼を抱きしめた。


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素敵企画「思いだしてよ!」様へ(携帯サイトです)
転生を書くという、倖せな機会をありがとうございました!

title by ニコラ