目を醒ますと、うっすらとした白い光が、闇との境界を曖昧にさせていた。自分以外誰もいない部屋はだだ洩らしにしているテレビは、眠る前と同じように淡々とした口調で出来事を綴っていく。どこぞの国で誰かが死んで、どこぞの街で事件が起こり、どこぞの動物園でパンダの赤ちゃんが生まれた。一枚絵でもあるまいが、どうも代わり映えのしない風景なような気がして、壁際のテレビへと近寄る。薄いそれの横に付けられた主電源のボタンに手を掛けると、スンと声を上げて光が落ちた。そこから発せられていた熱がこもった、どことなく生温かい闇が私の視界を暗転させる。

(あいつは、バイトだろうな)

壁の向こうにある静寂には慣れているはずだった。いつもであれば、そのまま何事もなかったかのように瞼を下ろすだろう。だが、どうしてだか、私の体は自然と玄関に向かっていた。文次郎の声を聞きたい、そう思ったのだ。



***

そそり立つビルの黒い影に切り取られた狭い空に、ぽつん、と頼りない光が置き去りにされている。ここらで星空が見れる所など、だいぶ限られてしまっているのだ。あの頃もそうだったのかもしれないが、その記憶すら曖昧だった。積っていく日々に『過去』は静かに埋もれていく。色褪せるというよりも、もう、思い出せないのだ。手からこぼれおちていく砂のように、反芻しても反芻してもあやふやなことが増えていく。

(確か、この辺りだったな)

ぐだぐだと考え事をしながら歩いていると、赤提灯が軒に連なる通りまでやってきていた。しつこい客引きを笑顔で黙らせながら歩を進め、周囲の看板に意識を払う。文次郎と会ってどうこう、という感情はなかった。ただただ胸に溢れる鬱積をぶつけたかっただけなのかもしれない。

「いらっしゃいませー」

一体、どこからそんな機械みたいな声が出せるというのだろうか。割れたスピーカーみたいになキンキンした音が耳にかぶりつく。営業スマイルを浮かべた店員は私の周囲をくるりと見渡して「誰かと待ち合わせですかー」とガムを噛んでるかのごとく粘っこく話しかけてきた。いや、と首を振ると「ご新規一名さまでーす!」と店の奥に向かって店員が叫んだ。バラバラと降り注ぐ「ありがとうございまーす!!」の嵐に、文次郎の声を聞いた。



***

勝手に店に来たことを、文次郎は相当怒っているようだった。そこそこ込み合っているものの満席でないことを察し、私は暖簾が下ろされた個室に案内してもらった(スマイル一つで)。隙間から見える通路に文次郎が過ったのを見定め、わざと声色を変えて呼んだのだ。「すみません」と。鴨居から垂れさがる藍色の布をかき分けて、注文を取りに来た時の奴の絶句した顔と言ったら。そのことを思い出して笑っていると、通用口が乱暴に押しあけられた。どうやら、まだおかんむりらしい。

「遅い。いつまで待たせる気だ」

さっきまで緩み切っていた頬の筋肉を押し固め、わざと不機嫌なポーズを取る。「待たせるって、お前が勝手に待ってただけだろうが」と苛立ちに髪を掻きあげながら文次郎が応えた。所々黒ずんだ蛍光管がきれかけているせいだろうか、羽虫が耳元で飛ぶような鬱陶しい音がする。奴の喧嘩腰の口調が伝染する。

「ふん。おかげで早く上がれただろうが。本当なら、朝までだったはずが」
「その分、バイト料、差し引かれんだよ。おまけに」
「おまけに?」
「いや、」
「おまけに、何だ」

うだうだといつまでも言葉を濁そうとする文次郎の目に焦点を当てる。あからさまに、しまった、という面持ちだったために、もう少し追求してやろうとしたが、奴は、すぃ、と視線を投下した。伏せられた睫毛が影を作ってしまい、その奥に見える色は分からない。どうしようかと考えあぐねていると、文次郎の唇からぽろりと言葉が落ちた。

「けど、それができたら苦労しねぇよな」

耳を通り抜けた音が意味をなしても、全く繋がらず、思わず「は?」とそれ以上二の句が告げれない。慌てて「何でもない」と手をかぶり振った文次郎に再度、「何を苦労するんだ?」と追い詰めようとすると、「だから、何でもねぇって」と怒ったように背を向けられた。 拒絶されたようで、私は言葉を失った。隔てるものは距離か時間か空間か、よく分からなかった。近づき方を、忘れてしまった。

「つーか、何で来たんだよ」

文次郎の問いかけに、私は答えを用意していなかった。文次郎と会ったなら、で答えを出すつもりだった。答えが出るつもりだった。でも、結局、何も変わらなかったのだ。私と文次郎を隔てるものが存在する限り、あの薄暗い部屋で隣に帰ってくる気配を待ち続けるのと、何一つ。私は地面を蹴り上げ、その反動で椅子から立ち上がると「帰る」と告げ、そのまま文次郎に背を向けたた。滑稽だった。こうでもしないと気付けない自分に。

「仙蔵、」
「何でもない」

真っすぐに追いかけてくる声を振り払う。もう、ごめんだった。これ以上、惨めになりたくなかった。

「仙蔵」

けれど、二度目は、食い込む力に、その手を解くことができなかった。がっしりと掴まれて軋むほどに締め付けられ、文次郎の熱が痛いほどに注ぎこまれる。自分と奴との境目が分からなくなる、繋がってるんじゃないか、と錯覚に陥る。

(こんなにも近いのは、いつ以来だろうか)

別に、文次郎に避けられたわけでも、無視されるようになったわけでもない。けど、いつの間にか私と文次郎の間には、隔たりができていた。ふれそうでふれることのない、その距離は、どうしようもできない深い溝になっていた。ふれることができなくなった。

「文次郎?」

痛いのはどこだろうか。掴まれた腕か、それとも胸の奥か。重なり縺れ合って、どちらのか分からなくなった熱に焦れる。どちらのものか分からなくなるほど近づいた温もりを、私は振り払うことができなかった。かといって、真摯な文次郎の瞳を受け止めることができず、視線を空に転じる。と、文次郎の双眸のような澄んだ夜のしじまを横切る一閃。

「あ、」
「え?」
「今、星が流れた」

私の言葉に文次郎も見上げるのが伝わってきた。さっきよりも時間が遅いせいか、目を傷めるような鮮烈なネオンはなく墨のような濃い夜が溶けだしていて、爪先よりもまだ小さい星たちが潤んでいた。

「昔、」
「あ?」
「昔、お前と流星群を見たのを覚えてるか?」
「あぁ、」

夜を貫く光は、まだ、瞼を灼いている。おぼろげな記憶のなかで、それだけははっきりと思い出すことができた。小学4年生の丁度、今頃。理科の宿題で星空を見ることになって、隣に住んでいた奴が私を誘ったのだ。丁馬鹿みたいに寒くて、文次郎のジャンバーに身を寄せた。

「あの時、何を願ったんだ?」








(あの頃から、何一つ変わってない願いを、私は今もこの身に抱えているのだ)
未完成のプラネタリウム








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