ぺたん、ぺたん、とスリッパの音だけが廊下に響いていた。履きなれていないせいだろうか、つま先に引っかかって、何度も転びそうになる。冷え切った廊下には人の気配がなくて、いつもの風景なのに、見知らぬ世界に来てしまったような気分に陥る。 「神様のばか」 まるで悪寒が走った背中のように、ざわり、と木の枝が下から上へと揺れ動いた。風に吹かれて目まぐるしく流されていく雲は、それでも途切れることなく次々とやってきて。まだ降り出していないけれど、雨を含んだ重たげな雲に空からの光は遮られて、まるで海の底のように暗い。自分が運がないのは重々承知だったけど、それでも罵りたくなる。 (なにも、こんな日に台風が来なくてもいいのに) チャイムが、鳴った。普段ならば気にすることのない、僕たちの生活を刻むための音。ぼわぁん、と錆びついた残響が耳に留まって、なかなか離れない。人気のない校舎には、必要とされないチャイムは、不可思議で不気味な響きだった。 「伊作」 「っ、食満くん…びっくりした」 不意に耳元で声がして、飛び上がるほどに驚いた。心臓の収縮が一気に速まって、痛いほどに激しく鼓動が突き抜ける。声をかけてきたのが、去年同じクラスで結構仲が良かった彼だと分かっても、なかなか収まらない。胸の辺りを抑えていると「あー、悪い。驚かせた?」と心配そうな声が届いた。 「ホントだよ。びっくりした」 「伊作、一人?」 「たぶんね。みんな来てない」 廊下から見える薄暗い教室は、ただただ、机が並んでいるだけで。まだ秋の初めだというのに、まるで冬のような、暗い暗い空に広がる木が窓の向こうに見えた。枝を隠すほど重なり合った葉は影のように茂り、時々、わさわさと、塊ごと風に吹き飛ばされそうになっている。不穏な空気に染められた校舎は、日常とはかけ離れた姿だった。 (最後の日だから、みんなに会いたかったな) 「今日、休校って。暴風警報が出るからって。さっき、職員室前通ったら、言われた」 「やっぱり。食満くんのところも連絡、間に合わなかったんだ? 家遠いと、連絡来る前に、家を出なきゃ間に合わないから大変だよね」 「台風なんだから、遅刻くらいすればいいのに」 「や、僕、無欠席無遅刻記録更新中ですから」 「その記録って、次の学校でも引き継がれるのか?」 その言葉に視線を向けると、じっと、その黒目がちな目が僕の方を見ていた。ちょっと、びっくりして「知ってたんだ?」と尋ねると「お前、すぐ帰る?」と彼は、全然別の質問で返してきた。まだ注がれる彼の目からは、ちっとも、その意図が読み取れなくて。けれど、なんだか、その目を見ていると、さっきとは違う、不思議な淋しさに覆われていくのが分かった。ここで別れたら、きっと、二度と会えなくて、いつか懐かしく思い出すだけの存在になるのだろう、と。 それで、「何で?」と聞く代わりに、僕はうなずいていた。「じゃぁ、学校探検な」と言って先に歩き出した彼の背中を、追う。それは食満くんが口にするには子どもじみた発想のようにも思えたけれど、「学校探検」と口にしてみると、それしかない、そのために学校に来たんだってくらいに、ピタリと僕の中にはまりこんだ。 *** 「どこから行きたい?」 「第2資料室、かな」 「ふーん。何で?」 「年に数回だけど、そこでサボったことがあって」 シンと静まりかえった廊下では、思ったより音が響いて跳ね返ってくるのが分かる。無理にそれを抑えようとすると、妙に、くぐもったような声になってしまった。授業中でもないのに、潜めてしまうのは習慣だからだろうか。それとも、内容が内容だからだろうか。まぁ、僕たち以外に、何一つ他の人の気配がない、という点では決定的に授業中とは違ってるし、小声じゃなくてもいいんだろうけど。 「結構、人が来なくて好きだったなぁ。同じ階に音楽室があるから、時々、うるさかったけど」 鍵の壊れた(見た感じは、壊された、が正しいところなんだろうけど)資料室の扉を開けると、喉の奥に埃っぽさが貼りついた。晴れた日なら、窓から差し込む光の中で際限なく舞い続ける白っぽいそれも、今日は息を潜めている。辛気臭さが増した部屋は、なんか、いつもと違う感じがした。食満くんは物珍しそうに、棚に置かれている資料を引き抜いては戻すのを繰り返していた。 「へぇ。俺は、数研の準備室を使うけどな」 「え、あそこらへんの教室、授業で使うでしょ」 「それが意外と準備室は授業中は人こないし。おすすめ。……って、いまさらか」 そう苦笑を漏らす食満くんの言葉に、少し、胸が苦しくなる。仲良かったはずの彼のことを何も知らなかったことに。そして、もう知る機会がないことにも。 「次は?」 「2年3組に行ってみようよ」 踊り場の明かり取りの窓から見える空は、さっきよりもさらに雲に分厚く覆われ灰色に塗り込められていた。足下の影が同化してしまいそうなほどに暗い階段に、スリッパをとられないように、慎重に歩く。隣を歩く彼のワイシャツだけが、ほの白く、ぼんやりと光って見えた。じきに衣替えの季節になるのだ、と、そこから伸びるうっすらと日焼けが残る彼の首筋を眺めた。 (その姿は、もう、見れないけど) ゆっくりと再生される記憶は、今はまだ、それほど古びてはないけれど。積み重なっていく日々に、いつか、それも思い出すことができなくなるのかもしれない。いや、思い出すことをしなくなるのかもしれない。それは、今日のことも同じなんだろうけど。 *** 「担任が替わると、教室の雰囲気も変わるな」 「そうだね」 教室をのぞくと、やっぱり人の気配はなく、薄暗い中で机が整列していた。万が一、窓が割れてもガラスが飛び散らないようにだろうか、生成り色のカーテンがぴっちりと閉じられていた。妙な感じを覚えるのは、中に入って見渡しても去年の面影は残っておらず、ここで勉強していたんだという実感が沸かないからだろうか。下の学年が新たな城を築いているのを実感するのは、自分勝手なのは分かってるけど、なんとなく癪に障る。 「あ、あれ、あるかな?」 「何?」 「最初の頃、食満くんと同じ列になったこと、あったじゃん。ほら、窓際でさぁ」 「あー、壁に、こっそり、落書きしたっけ」 そうそう、と頷きながら壁際に寄って、たくさん刻まれた中から自分たちの筆跡を探す。同じようにしていた食満くんが「あった」と呟いた。指さされた先に目を凝らすと、たしかにあった。痕跡が。誰かが触ったのだろうか、掃除で拭かれたのだろうか、輪郭がぼんやりと広がって黒ずんでいて。何と書いてあったのか、何て書いたのか、すっかり分からなくなっていた。あの頃を頭の中で巡らせる。 (何、話してたっけ?) 他愛もない話ばかりで、もう、思い出せない。 「結局、食満くんの近くの席って、あれ1回きりだったよね」 「そうか。なんか、けっこう話してたから、意外だな」 「そうだね」 思い出そうとしても、具体的な会話は浮かばず、ただただ、楽しかった印象だけが胸を過ぎる。あの頃は、馬鹿話ばっかしていた頃は、ちっとも、想像していなかった。こんな形で「さようなら」を告げるとは。卒業式とかで、「同窓会やろうね」みたいな、明るい光の中で別れるイメージしかなかった。静寂に響く、二人分の足音が胸に痛い。 *** 「おー、……なんだ、お前らか。休校の連絡いっただろ?」 「あ、先生。僕も食満くんも、連絡来る前に、家出る時間になっちゃったもんで」 「善法寺は分かるが、食満、お前はすぐ近くだろうが。 まぁ、いいや。とりあえず風、出てきて危ないから、車で送るぞ。 今から鍵取って、車を回すから、とにかく、二人とも昇降口で待てろ」 ざわざわと、今までになかった人の気配に、職員室の前を足音を殺して歩いていると、急に扉が開いた。僕たちと認めたのだろう、驚いた表情はすぐに渋い顔へと変化し、呆れた口調に戻った。面倒そうに踵を返していくその背中が、この探検の終わりを告げていた。 食満くんは、何も言わなかった。 僕は、何も言えなかった。 のろのろと階段を下りて、気がつけば昇降口まで来ていた。無言のまま、食満くんは普段使っている自分の、僕は来客用の下駄箱へと向かう。ようやく履き慣れたスリッパは僕の体温が馴染んでいて、なんとなく、脱ぎたくなくなる。けれど、いつまでもそうしているわけにもいかない。仕方なく靴を履き替えて来客用の下駄箱から昇降口を出ると、食満くんが佇んでいた。 「ねぇ」 「あー?」 「食満くんの家、この近くだったんだ?」 ごぉごぉと、獣の咆吼のような轟きに耳が支配される。そこに、枝がぶつかり合い爆ぜるような音が混じり、叫ぶような大声じゃないと、声が届かない。さっきとは違う断続的に吹き荒れる風に土の匂いが混じって、いよいよ、台風が近づいているのを感じる。答えを聞きたい、そう心が急いてざわめくのは、天候のせいか、時間が迫っているせいか。 「あぁ。伊作が見えたから、追いかけてきた」 「え?」 「休校の連絡あって、ぼーっとしてたら、伊作が通ってったから。 俺の家の前、普通に伊作の通学路だったんだけど。知らなかった?」 ノイズ混じりの彼の言葉に首を振ると、じっと、また、あの視線が僕に向けられた。 「今日、どうしても、お前に会いたかった」 不意に風が止んだ。全ての音が、消えた。彼の言葉だけが、残される。 「伊作に、会いたかった。この意味、分かるか?」 分かりすぎて、痛かった。 彼の言葉も。 現実も。 -------------------------この台風と一緒に、僕はこの街を去るというのに。 (心の中は、ごぉごぉ、と嵐が吹き荒れていた)
空がかわりに泣いてくれる
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