Happiness きみといるしあわせ ※勘ちゃんが出張ってます。 す、っと瞼を温めるようにして入り込んできた光に、自然と目が覚めた。昨晩の雨は止んだのか、と部屋の明るさを感じながら、手足を布団の中で伸ばす。ぐん、と引っ張れば爪先が布団に残される温もりに取り入られそうになる。ふわふわとした温かさに、このまま二度寝したい気持ちでいっぱいだった。というか、いつもの休日だったらもう少し寝ているところだ。けれど、今日はそういうわけにはいかない。今日は結婚宣誓式の何度目かの打ち合わせに出かける日だった。 (んー、今、何時だ?) ハチとの約束の時間に間に合うよう、寝る前に一応、携帯のアラームを掛けておいたけれど、鳴ったのかどうか分からなかった。半分乗りかけた瞼と思考を闘わせつつ、自分の頭の付近に掌を振りおろし、携帯を捜索する。素材が布のせいか、ぱたぱた、と篭った音続いていたのが、不意に硬化した。指先の触り心地も柔らかなものから、滑らかなものへと変わった。そのまま掴み取れば、予想通り、探していた携帯で。感覚を頼りに折り畳みの部分を開けると、カチリ、と音が弾けた。薄目を焼く液晶の眩しさに、陥落しかけていた眠気が一気に飛び去る。 (もう7時半か) 画面に現れた数字は、アラームで予定していた時刻よりも30分早い。それでも、のんびりと支度をしていれば、丁度いい頃合いになるだろうと判断し、起きようと開き切った携帯を閉じようとして、ふ、と気が付いた。着信履歴の文字に。 (誰からだ?) 今日の休みをもぎ取るために、と山積した仕事を片付け、この部屋に帰ってきて寝たのは昨日の夜遅くだった(というか、正確には今日の日付だった)が、その時までに携帯が鳴った記憶はなかった。アラームを掛けた時に画面をチェックしているから、電話が掛って来たのはそれ以降ということになる。そんな遅い時間に、と掛ってきそうな面子を想像しながら、着信履歴の画面に移動するボタンを選ぶ。 「あぁ、勘ちゃんか」 一番上に表示されたのは、俺の幼馴染の名前だった。同じ段組の中に示された時刻は俺が寝たのよりも数刻後、どちらかと言えば朝に近いものだった。文句の一つや二つ言うことのできる非常識な時間帯だったけれど、そこは幼馴染だからこその特権なのだろう。だから俺も、この後に寝たとしたらまだ眠ってるかもしれない、と思いつつも躊躇うことなく、発信ボタンを押した。1コール、2コール。 (出ない、か) 5コール、6コール。耳元から掛けていくコール音を無意識のうちに数えながら、彼と繋がるのを待つ。履歴は一回しか残ってないのだから緊急な用ではないことは分かっていたけれど、なんとなくメールに切り替える気にはなれなかった。反復する響きが変化するのを待ちわびながら携帯をさらに耳へと押し当てる。 「……もしもし」 よく知っているものよりも1オクターブも低い声がコールを押し入って飛び込んできた。寝起きのせいで掠れて鼻がかっているためか、それとも、機械越しで音割れをしているせいか、不機嫌に聞こえる。けど、俺は特に気にすることなく「勘ちゃん?」と話しかけた。途端に、受話器の向こうで言葉が踊る。 「おー兵助か! どうしたんだ、朝から?」 「いや、昨日、電話くれただろ」 俺の言葉に「あー、そうそう。もう寝てるだろうなーと思ったけど、兵助に電話したかったから」と悪気を全く感じてない、あっけらかんとした声で勘ちゃんは答えた。なんとなく想定していた内の言いようだった。まぁ、文句を言った所で今さら改善されるわけでもないし、だいたい俺も寝ている勘ちゃんを起こしたのだから、おあいこといったところだろう。だから「何か用事だった?」とだけ告げる。 「なんだよ、用事がないと電話しちゃいけないのか?」 「そうじゃなくて、たいていメールだろ」 お互いの仕事の関係上、タイミングが合わないから、と勘ちゃんからの連絡はほとんどがメールだった。遊ぶ予定はともかく、その時見てないと分からないテレビ話までもメールで、電話が掛ってくることなんて滅多にない。実際、聞きなれていないせいか、受話口の向こうでくぐもっている勘ちゃんの声は、なんだか不安定な気がして、変な感じだった。 「あー、まぁ、直接言いたいことがあったからな」 ぼそり、と、どことなく歯切れの悪さが残される。その様子を不思議に思いながら「直接言言いたいことって?」と疑問を投げると、繋がっていたラインがピンと張りつめたような気がした。何かあったのだろうか、と誘われる不安に、ぎゅ、っと息が絞られて苦しくなる。心臓の鼓動が、じわり、と速度を増した。 (勘ちゃんが俺に電話してくる理由なんて…あ、) 可能性があるとするならば、あの事だろう。届いただろうか、あの手紙が。俺の想いが。 *** 忙しいから入籍だけで済ませようと思っていた俺たちに三郎が「絶対、式を挙げるべきだ」と声高に主張した。普段なら宥める役の雷蔵も「そうした方がいいよ」と強硬に言葉を重ねられ、経験者の二人が言うならば、と俺たちはひっそりと結婚宣誓式を挙げることも視野に入れた。 「あぁ、ちょうど、さっき式が行われた所なんですよ」 三郎と雷蔵に紹介されたそこを訪れると、温かな笑みが溢れかえっていた。出迎えてくれた担当者が向けた優しい眼差しの先には、白い光のシャワーを浴びた、祝福に満ちた世界がふわりと広がっていて。本当に倖せそうだった。結婚した二人も、それから、その周りの人たちも。 (いいな) 紙一枚であろうと誓いの言葉であろうと、俺とハチの絆は何一つ変わることがない。今まで、俺とハチが積み上げてきたものは。式を挙げようと挙げまいと、それが変わることは決してないのだろうと。だから、正直な話、さほど結婚宣誓式を重要なものだと思ってなかったし、挙げたいとも思ってなかった。俺にとって一番重要なのはハチの「結婚しよう」という言葉だったのだから。それがあれば、別に式を挙げなくてもいいと思っていた。--------けど、今、初めて、式を挙げたいと思った。 (倖せそうだ) 当人も、そしてその周りの人たちの倖せそうな笑顔を見た瞬間、とても羨ましく感じた。そして、思ったのだ。もし、自分たちの結婚が周りの誰かをあんな風な笑顔にさせることができるのだとしたら、と。それは、とてもとても幸福な想像だった。 (俺たちも、そうできたらいいな) それはハチも同じだったようで、絡めていた指の力が、ぎゅ、と強まる。手を繋いで倖せに染められた光景を見つめたままのハチが「兵助、あのさ」と話しかけてきた。皆を言う前に「俺も同じこと、思った」と言葉を塞げばハチは笑顔を弾けさせた。どれだけ倖せなことだろうか。重ね合った掌の温かさを、その倖せを分け合うことができたなら。いつかあのテーブルを囲むであろう、大切な人達と分けあうことができたなら。 (どれだけ倖せなことだろう) *** 「いい所でよかったな」 「あぁ。日取りも第一希望だったし」 想いが一致した俺たちは、その場ですぐさまに申し込みに記入してきた。用紙に綴られた『竹谷 兵助』という文字を見た瞬間から、何だか温かいようなくすぐったい気持ちに揺られ続けている。何でもないことでも、自然と唇が緩んでいた。手を繋いだ先にいるハチも似たり寄ったりで、ふわふわと、二人夢心地になりながら歩き続けた。いつしか夕刻になっていて、足元にずっと伸びる長い影は寄り添うように重なり合っている。 「とりあえず、招待状、書かないとなぁ」 ゆらゆらと影を揺らしながらハチが嬉しさを滲ませながら呟いた。 「式に、誰、呼ぶ? あんまり盛大にするつもりはないだろ?」 「だよな。身内とあいつらでいいんじゃないか?」 あいつら、とハチが差したのは三郎と雷蔵-------それから、勘右衛門のことだろう。勘ちゃん。その名前を浮かべ、きゅ、と心臓が掴まれたかのように痛んだ。俺の大切な、幼馴染。誰よりも、祝福してもらいたい友人。 (けど、) 当初から乗り気だった三郎や雷蔵と違い、勘右衛門は未だ、俺たちの結婚に反対していた。直接「やめておいたら」と言われたわけじゃないから、厳密には反対とは言えないのかもしれないけど、けど、ハチからのプロポーズの話を電話した時、彼からの「おめでとう」の言葉はなかった。生まれた時から過ごしてきただった俺とはもちろん、高校で知り合ったハチともずっと仲が良くって、いつも一緒にいた。俺がハチの事を好きになって悩んでいた時は相談に乗ってくれていたし、俺たちが付き合い出した時は自分の事のように喜んでくれた。 (なのに、結婚は……) 真面目な勘ちゃんのことだ。きっと、心配してくれているのだろう。同性同士の結婚が法律的に認められてはいるものの、まだまだ根強い反対や偏見がある。中傷や嫌がらせがないわけじゃない。仕事で不利になることもあるかもしれない。一度だけ喜んでくれない理由を訊ねた時に、周りの風当たりの強さを勘ちゃんは暗に仄めかしていた。 (けど、俺は勘ちゃんが祝ってくれたなら、それでいいのに) 別に周りの人達がどれだけ酷いことを言ってきたとしても、別に構わなかった。俺たちの大切な人達が俺たちの結婚を祝福してくれるなら、それだけで十分だった。勘ちゃんが「よかったな」って言ってくれるだけで、周りの冷たい目に立ち向かっていくことができる。なのに、 「兵助」 俺の想いが伝わったのだろう、ぽん、とハチは俺の頭を軽く叩くと「大丈夫だって。絶対、勘の奴も分かってくれるさ」と力強く微笑んだ。それに応えるように、ハチの温もりに包まれた手に、ぎゅ、っと握り返す。まだ心は完全には晴れないけれど、ハチの言葉を俺は信じた。きっと、大丈夫だ、と。 *** ハチと選んだ無垢な白の封筒に、俺は本当に久しぶりに彼のフルネームを綴った。幼いころから呼び続けていた『勘ちゃん』というあだ名に慣れてしまっていて『尾浜勘右衛門様』という字面に違和感を覚える。そういえば勘ちゃんに手紙を出すのも年賀状以外では初めてかもしれない。郵便で出す封筒の表書きは仕方ないけれど、どこか知らない人みたいで、何か嫌だった。だから、結婚宣誓式の招待状という公の文章にも関わらず中身はいつものように『勘ちゃん』という愛称を使った。本当に限られた人しか呼ばないから手書きで、と式の日取りや場所に続いて、俺はただ一つの願いを込めて綴った。 『勘ちゃんには、絶対に来てほしいと思ってます』と。 *** その招待状を出したのが一昨日。きっと、勘ちゃんの手元に届いて、電話をしてきたのだろう。断りの電話だろうか、と紡がれた沈黙が圧し掛かってくる。絞られた呼吸が苦しくて、俺は服の胸元を空いている左手で手繰り寄せ握った。早鐘を打つ心臓の音さえも聞こえてしまいそうなぐらいの静寂が耳に痛い。頭の中で何度も繰り返す。「ごめん、行けない」って言葉を。どれくらい時間が立ったのか、ふ、と静けさが揺れた。 「兵助、結婚、おめでとう」 和らいだ声に、ゆるやかに緩んでいく空気。電話の向こうで勘ちゃんが笑ってくれているような気がした。 「勘ちゃんっ……」 「招待状、届いた。ありがとう」 「ありがとうは俺の方だ」 「何で?」 上がった語尾に「おめでとう、って言ってくれて」と答えると、また沈黙が俺たちを繋いだ。今度は、優しい沈黙が。しばらく口を噤んでいた勘ちゃんがひそりと呟いた。「一番に、言いたかったんだ。おめでとう、って。だからあんな時間に電話したんだ」と。じわり、と滲む温かな世界を、これほど愛しい世界を俺は知らない。 「なぁ、兵助、一つだけ聞いてもいいか?」 「あぁ」 「今、倖せか?」 -------------心から言える。だって、大切な人達が俺とハチを祝福してくれるのだから。 しあわせです、と |