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Happiness


きみといるしあわせ






※結婚当夜。

甘い足音が、二つ、夜に響き渡る。綿菓子みたいなふわふわとした、夢見心地な気持ちで。シャンパンの残滓が酔いとなって残ってる。けど、くすくすと笑いだしそうになるのはそのせいだけじゃないだろう。魔法が掛ったみたいに、すぐに緩む唇を堪えるように軽く噛みながら、浮かれた足取りですっかりと静まり返ったマンションの廊下を二人で歩く。繋いだ手からハチの温もりが伝わってくる。心地よい疲労感が俺たちを包み込んでいた。

「とーちゃく、っと」

高らかに歌ったハチも俺に負けず劣らず笑みを浮かべていて、その顔にほわりと胸が温かくなる。どうしようもなく幸せで、夢を見ているようだった。まさか頬を抓るわけにもいかず、俺は繋がったハチの体温をぎゅっと握りしめた。そこにある指輪の存在を確かめるかのように。

「えっと鍵は…っと、鍵、鍵」

もう一方の空いた手でとポケットを探っているハチを横目に、俺は玄関の扉に向かい直る。引越の準備で何度かここに足を運んだけれど、荷物を運び入れるために開けっ放しにしていて、改めて見ることなんてなかった。

(今日から、ここに住むんだよなぁ)

まだ夢を見ているみたいな気持ちだったが、そう思えば単なる焦茶色の扉さえ愛しく感じるのだから不思議だ。しばらく、ごそごそと漁っていたハチが「お、あった」とポケットから剥き出しの鍵を取りだした。なんとなく、ハチの手が、その温もりが放しがたくて、右手が空いている自分が開けようと「貸して」と彼から鍵を受け取る。廊下に備え付けられた橙色の電灯はやや暗いものの俺の掌を照らし出した。前の住人が付けたのだろう、鍵に刻まれた小さな傷が反射し、きらきらと光る。

「鍵って一つ?」
「や、二つ預かったから、後で渡す」
「頼むな。どっちが帰り遅いか分からねぇし」

鍵穴にはめ込みねじ回せば、かちゃり、と錠が外れる音が扉の向こうで跳ねた。鍵を揺らしながら引き抜いて、とりあえず手近なポケットに収め、そのまま扉を開けた。踏み込めば、穏やかな闇に迎えられる。手を彷徨わせ、うろ覚えな玄関の明かりのスイッチを探していれば、

「ただいま」

背後から柔らかく降り注いだハチの声に、俺は探索する指を止めていた。そっか、『ただいま』なんだな。その言葉を心の中でそっと呟き、その温かさを噛みしめる。今日からは『おじゃまします』でもなく『いらっしゃい』でもないのだ。『ただいま』と『おかえり』。

「兵助? どうした?」

その響きがあまりに優しくて。ゆっくりと広がっていく温かさに、もうちょっと浸っていたくて、ハチは不思議そうにしていたけれど、俺はその場に留まった。再度、ハチが「どうした?」と尋ねてきて、俺は彼の方に振り返った。

「ただいま」

きょとん、と見開いた目はすぐに緩んで、彼は日なたのような温かな笑みを浮かべた。

「おかえり」



***

電気を付けながら廊下を歩き、ついでに浴室へと足を延ばして給湯スイッチを押す。しばらく使われていなかったせいか、一瞬、鈍い音が沸いた。着火されて動き出したのを確認し、リビングダイニングとして使う予定の部屋へと足を向ける。

「とりあえず、シャワー浴びるか」
「そうだな。結構、体が埃っぽい」
「兵助、先入ってこいよ」
「ハチからでいいよ。疲れてるだろ」

押し問答になりそうな気配に「なんなら、一緒に入るか?」とハチがにやりと笑った。想像で熱が頬に昇るのが分かった。ニヤニヤした彼の笑みが膨らむ。なんとかしようと「……馬鹿」とハチをどついて部屋のドアを開ければ、一緒に買った大きなテーブルが俺たちを出迎えた。とりあえず、そこに荷物を置いて「いいから入ってこいって」と、まだ含み笑いをしているハチを浴室の方へと押し出した。

(うー寝てしまいそうだな)

石が圧し掛かったような重たさが体中に浸透していて、俺はテーブルに備え付けてあった椅子に腰を下ろした。ベッドやソファに座ればそのまま夢の世界に旅立てそうな気がして、敢えて硬い椅子を選んだのだが……やっぱり眠いものは眠い。荷物を片付ける気力もなく、ぼんやりと頬づえをついて待っていれば、だんだんとシャワーの子守唄が遠くなっていって--------------。

「っ、兵助っ」
「んー?」

揺さぶる感覚にうっすらと目を開ければ、タオルを首からかけたハチが「そんな所で寝てると、風邪ひくぞ」と眉を顰めながら俺を覗きこんでいた。まだ朧気な頭を振りながら、なんとか突っ伏していた体を起こす。

「シャワーどうする?」
「ん、入る」
「風呂の中で寝るなよ」
「寝ないって。タオルってどこだっけ?」

まだ心配そうなハチから「あー、洗面台の横の棚。上から二番目に入ってる」と場所を聞き出すと、俺は脱衣所へと向かった。扉を開ければ、さっきハチが使っていたためだろう、もわりとした靄がすぐさま溢れ出てきた。蜜柑のような色合いの電球に照らされて、霧状の粒子がきらきらと躍っている。棚からタオルを取り出し、服を脱ごうとして、ふ、と目に留ったもの。ぴかり、と光るそれ。誓いの、指輪。

(これって、外さなくても大丈夫なのか?)

もともとファッションリングも身に付けるタイプでない自分では、判断がつかなかった。せっかく贈ってもらった指輪だ。できることなら傷つけたり汚したくない。けれど、結婚指輪はずっとはめておくんじゃなかったっけ、と不明瞭な記憶に従って、俺は外さずにそのままはめてシャワーを浴びることにした。

------------何より、そこにハチがいるような気がして、一時も離れたくなかった。



***

ぺたぺたと床に足を張りつかせながら大きなテーブルのある部屋へと戻り、奥にあったソファーに倒れこむように座る。やわらかな感触に、一気に体が沈みこんだのは、体重だけのせいじゃないだろう。くたくたの体は、けれども充足感に溢れていた。それは俺だけじゃないようで、「疲れたけど、いい一日だったな」と呟きながら、俺の左隣にハチが腰かけた。ソファに埋もれた体は、ハチの重みのせいでさらにその深みが増した。

「そうだな」
「あんなサプライズ、兵助が用意してると思ってなかった。ありがとな」
「ハチこそ。すごく嬉しかった」
「おぅ。…三人に、礼を言わねぇとな」

結婚しよう、そうハチに言われて半年。ようやく迎えた今日、俺たちは交換した指輪に誓いを刻んだ。最初は、式を挙げずに役所に婚姻届を出して、三郎や雷蔵、勘右衛門には簡単に報告をして済ませようと思っていた。互いに仕事をしている身では休みの予定を合わすことも大変だったし、俺もハチも式典にこだわりもなかった。けれど、三郎たちに「式だけは挙げとけよ」としつこく言われ、それなら結婚宣誓式だけでも、となったのだ。参列したのは身内と近しい友人だけだったが、温かな祝福に包まれて、とても幸せな一日だった。

「そうだな。電話、掛けておくか」

電話を取ろうと立ち上がろうとした俺と触れていた側の腕を取った。どうしたのだろうか、と彼の方を見遣れば、彼の瞳には真摯な色が浮かんでいた。そのまま再度、ソファに身を任せると、ゆっくりと彼の温もりが俺の腕を下がってくる。やがて、それは俺の左手の薬指で止まった。-----------そこにあるのは、傷も曇りも一つもない、シルバーリング。

「ハチ?」
「本当に結婚したんだなぁ、と思って」
「実感が湧かない?」
「つーか、これから毎日兵助といれるなんて、夢みてぇでさ」

信じられねぇよ、なんて率直な感想に、思わず小さく笑いを零してしまった。そういや、さっき、自分も同じことを考えていたなぁ、なんて彼の頬を軽く抓る。「いひゃい」と笑うハチに俺もつられて唇がさらに緩んだ。

「夢じゃないんだよな。これから毎朝起きたら隣にいつも兵助がいて、遅刻しそうになったら慌てて朝飯を食べて、毎日『行ってきます』のチューして」
「それは却下」

彼の言葉を聞き咎めてそう言えば、焦ったようにハチが「え、いいだろっ」と叫んだ。はぁ、と溜息をついて「毎日『行ってきます』のなんて」と呟けば、どう解釈したのか「時々はしてくれるだろ」とハチが俺の顔を覗ってきた。混ぜっ返したら、さらに喚きそうな気配に「時々な」と軽く流す。けど、それに満足したのかハチが再び話しだした。

「で、帰ってきたらどっちかが『ただいま』って言って、」
「もう一方が『おかえり』って迎えて?」
「そうそう。んでよ、夜も一緒に食べて、テレビとかDVDを見たりゲームしたり、風呂も一緒に入ってさ」

俺が言う前に「あ、時々な」と先回りしたハチに笑えてきたけれど、なんとか抑えて「時々な」と返せば、彼が嬉しそうに「そう、時々な」と拳を握りしめているのが分かった。

「それでよ、『おやすみ』って兵助と一緒に寝る」
「時々?」
「これは毎日」

断言するハチの力強さに、とうとう可笑しさを堪え切れることができず、つい、吹き出してしまった。笑いだした俺に「何だよ」とワザとらしく膨れ面を造ったハチに「何でもない」と答える。すぐさま尖らせた唇を解いて口の端を緩めて微笑んだ彼は、それから、不意に表情を変えた。真っすぐに切り結ばれた双眸の瞳の色が深くなった。

「あのさ、もう一つ、毎日したいことがあるんだけどよ」
「毎日?」

何だろう、と思っているとハチの手が、ゆっくりと、俺の掌に降りてきた。温かな温もりが、触れあった部分からじんわりと広がっていく。少しかさついた無骨で太いハチの指が、リングごと俺の指へと絡まる。隙間から僅かに見える銀色は優しい光を放っていた。

「毎日、手を繋ぎたい」
「手を?」
「そう。今日も、明日も、明後日も。一年後も十年後も」
「十年後も?」
「十年後どころかさ、しわくちゃのじいちゃんになっても、兵助とずっと手を繋いでいたい」

今は真新しくぴかぴかと光っているリングも、これから毎日はめていれば、いつかは小さな傷が付いたり曇ることもあるのだろう。それと同じように、時にはハチと喧嘩したり、すれ違ったりして、上手くいかなくて分からなくなって悩んだりすることがあるだろう。

「しわくちゃのじいちゃんになっても?」
「そう。死が二人を分かつ日まで」

けど、きっと俺はハチの隣で目を覚まして、遅刻しそうになりながらも朝ご飯を食べて、「行ってきます」の挨拶は忘れずして、帰ってきたら「ただいま」「おかえり」って言って、夕飯を食べてゲームしたりテレビを見たり、偶には一緒にお風呂に入って。そうして、一緒にベッドに入って眠りにつくのだろう。小さな傷がいくつも付いたリングをはめた手を、ハチと繋ぎながら。



-------------いつか、ハチと永遠に別れる、その日まで。
てをつないでいて、