シンフォニーレイン







なんで、その店に入ったのか、俺は今でも分からない。普段だったら一人で絶対に入ることのない店だ。雨がふっていたせいかもしれねぇし、歩き続けて足が痛かったせいかもしれねぇし、彼女にふられたせいかもしれねぇ。ただ、店の窓からもれ出ている光があまりに優しくて、俺は吸い寄せられるようにその店に足を向けていた。



***

水分を吸っているせいだろうか、随分と重たい木の扉を押すと、上の方に取り付けられていたベルがカランカランと眠たげな音を立てた。外から見ていた時と同じような、ほわりとした温かく優しい空気が俺を包み込んだような気がした。



「いらっしゃい」

大した感情のない声に、は、っと顔を上げる。カウンターの内側で黙々とスプーンを磨いている人物は、想像していたよりもずっと若かった。(なんというか、少し古めかしい店だから、白髭を生やした爺さんがしていそうだと勝手に思っていたのだ)明るい茶色をした髪は電球の淡い橙色に、やや金色っぽく光って見えた。他に人影はなく、彼が店主なんだろうと見当をつける。その店主とおぼしき人物は視線を落したまま、ちらりとも俺の方を見ない。しばらく待っていたけれど、一向に彼が俺に声をかける様子は見られなかった。ふ、と靴底からしみ出た雨水が木の床を伝い、黒々とした水たまりを広げていくのに気が付いた。今更、自分がずぶ濡れだったことを思い出した。ええい、とばかりに店の一番隅の二人掛けを選ぶ。カウンターで彼と向かい合う気にはなれなかった。

(まぁ、誰もいないからいいだろ)

硬そうな椅子に座ると、湿ったジーンズがケツに張り付いた。ひやりとした寒さが背筋をのぼった。冷え切った体に、温かいものを飲もう、と思う。



「どうぞ」

店主は俺一人だというのに、きちんと銀色のお盆で水やおしぼりを寄こした。雨にこもる声は低く、静かな余韻を俺の耳に残した。簡素な物しか作れないだろう、と思っていたが、彼がテーブルに置いたメニューは重厚な飴色をした革ばりのものだった。喉まで出かけていた「ホットで」という言葉を嚥下し、俺はそれを手に取った。ずっしりとした感覚が掌に落ちる。ぱらぱらとめくると、きなり色のざらりとした紙に流れるような書体で飲み物の名が刻まれていた。それが延々と続いていた。どうやら、コーヒーや紅茶一つとっても、それで両開きが埋まるほどの種類があるらしい。あまりに大量で、目移りしてしまい、なかなか決められねぇ。

(つーか、ホントに、こんなに作れるのか?)

カウンターの方にこっそり視線を送り、彼の若さだけでなく、スペースの狭さにもそう感じた。店の大きさからいって、作るところが奥にあるわけでもなさそうだ。目の前にある簡素なカウンターの中で、いったいどれ程の物が作れるというのか。変わったメニューでも頼んで困らせてやろうか、と意地悪な考えも過ったが、あいにく知識を持ち合わせてなかった。メニューの中からありふれたものを見つけ、注文を取りに来てもらうためにカウンターに向かって手を軽く上げてみた。けど、どうやら、彼は再び銀食器を磨く作業に没頭しているようで、まったくこちらの方を見ようともしなかった。改めて足労してもらうのも面倒なんで、「すみません」と少し大きめの声を上げ、店主の鳶色の瞳が俺を捉えたと瞬間、その次の言葉を継ぐ。



「すんません、ホット。アメリカンで」

たくさん種類がある中で散々迷った結果がこれなのは情けなかった。けど、変なものを頼んで外して、これ以上へこむのは、もっと嫌だった。

(今日はさんざんだったしなぁ)

恋人に別れ話をされた。その帰り、電車が止まって歩くしかなかった。おまけに雨に降られた。ここ数ヶ月分の不幸が全部押し寄せたような、そんな一日。鉛のように重たい足を突っ込んだスニーカーからはぐずぐずと黒ずんだ雨水が滲んでいた。それらは床にしみ込んでいき、ゆっくりとその範囲を拡大していく。視線を横に流すと、うっすらと白く滲んだ世界。さぁさぁと、空気をゆらす音が耳に染み入ってくる。
9月最初の雨は、当分、降りやみそうにない。



***

「おまたせしました」

俺よりもやや細い指先は、繊細な手つきで俺の元へと洗練されたカップを運んだ。そこから、ふわりと昇り立つ甘ったるい湯気が俺の肌をくゆらした。白い靄の下には夜闇のようなコーヒーではなく、もっと優しげな色合いをしていた。思わず「俺、コーヒー頼んだんだけど」と、その手の持ち主を見遣ると、彼は「チョコレートカフェオレ」と悪びれずに告げた。戸惑う俺にさらに、「あんた、世界一不幸だって顔してる」って言葉を投げかけてきた。

「なっ」
「コーヒーの値段にしといてやるよ」

論点はそこじゃねぇ、という台詞は、けれども、実際に空気を震わせることはなかった。なぜなら、ミルクで濁ってはっきりとしないけれど、水面に映る俺は店主の言う通りだったからだ。酷い顔をしていた。今更取り繕うのも疲れるような気がして黙り込むと、それを了承と受け取ったのか、彼は背をそむけ、何事もなかったかのようにカウンターの中へと戻っていった。そして、そこが定位置なんだろう、さっきと変わらぬ場所に収まると、 また布巾を手にスプーンを磨き出した。もはや俺に興味がないのだろう、こっちに穿つような視線を向けるどころか意識をしている様子もなかった。それに安寧を覚え、目の前のカップをもたげて口にする。舌を焦がすような熱さに、びりっ、と痛みが走ったけれど、今はそれが心地いい。甘い物を飲んでいるはずなのに、つん、鼻の奥がしょっぱくて、喉がひりひりした。

(あぁ、俺、泣きたかったんだ)









俺は、嗚咽を一つ、甘く優しい茶色に零した。
やさしいやさしい雨が降る午後








title by 星が水没