スローワルツ







※レインシンフォニーの続き。情事後のお話です。



密やかな雨は、夜更けまで続いたようだった。ようだ、というのは、途中から覚えてないからだ。あの後、俺は彼を部屋に招き入れて、そのままなだれ込むように縺れ合って、馬鹿みたいに浮かされた熱を分け合って、喉が壊れそうなほど彼の名前を呼んだ。彼は-------店主は三郎と言った。



足がつっかえたような、落ちそうになった浮遊感に意識が覚醒した。いつものように一発では起きれず、薄暗く落ちてくる瞼と戦いながら、枕元にあるはずの携帯めがけて手を振りおろす。けれど、なかなか目的のそれに触れれねぇ。ふ、とまどろみの静けさに何かが引っ掛かった。どことなく取り残された気だるさを抱えながら、霧がかっているようなぼやりとした頭で考える。

(あれ、携帯のアラーム、セットし忘れたか? つーか、携帯。あれ?)

散逸した記憶が一気に収集されて、は、と俺は飛び起きた。右腕の痺れ、喉の乾き、人の匂い、体に残る彼。右隣にある温もりは、昨晩のような焦がされるような、蕩けるようなものとは違い、ずいぶんと低いように感じれた。けれど、はっきりとその存在は俺の中に刻まれている。三郎はまるで猫のように体を丸めて敷布団に横顔を埋めている上に髪に覆われていて、その表情をうかがい知ることはできないけれど、穏やかな寝息が聞こえてきた。

(夢じゃねぇんだよな)

ほわり、と胸がくすぐったさに温かくなるような感覚が満ちていき、その次に、どんな顔をすればいいのか、と気恥ずかしさが募ってきた。考えても考えても、いい考えが浮かぶわけでもねぇ。体を起したまま頭を抱えていると、身震いが走った。そういえば裸だったと布団から出ている上半身に目を落とす。寒気のせいか、鳥肌が立っていた。とりあえず服でも着ようと、さっと周囲を見渡す。ベッドのすぐ下に、まるで抜け殻のような、くちゃくちゃになった服が点々と落ちていた。それを拾おうとベッドから床に降り立った。ひやりと足裏を食む冷たさに、秋も暮れ始めていることを実感する。とはいえ、まだ暖房器具など出しているはずもなく、手っ取り早く閉ざされたままのカーテンを開けることにする。拾い上げた服を着こみながらオリーブ色の遮光カーテンを引くと、さっと、太陽の光が射し込んだ。その眩さについ目を細める。薄汚れた窓の向こうに広がる青空はピカピカと磨かれたように光っていた。まるで昨日までの雨が嘘みたいに。

(つーか、喉、乾いたな)

かさり、と乾いた唇に舌を這わせたけれどそれじゃあ足りなくて。滾々とした潤いが欲しくて、水を飲もうとシンクに向かう。ちなみに俺は狭いワンルームに住んでいるからベッドから数歩といった所だろうか。彼を起こさないように、そっと、蛇口をひねる。きゅ、と甲高い音と共に細く流れ出した水をすぐ傍のコップで受ける。空気の粒が光の中できらきらと弾けた。ぎりぎりの所までで、また、蛇口を鳴らす。一気に呷ると、涼やかな甘さが喉を滑り落ちていき、貼りついていた熱を削げ落していった。

(あー、どうすっかなぁ)

それから、俺は檻の中のライオンみたいに部屋をうろついていた。別に共寝が初体験だったわけじゃないし、年齢相応の場数を踏んでいるとは思う(まぁ、他人の経験談や雑誌の平均なんて当てにはならねぇだろうけど)。初朝を迎えたら甘い睦言を囁いておけばいいのだ、とは知っていた。ただ、それは女相手なわけで、はたしてこの状況にそれが当てはまるのだろうか、とついつい悩んでしまう。

「ん」

背後で聞こえてきた甘ったるい吐息に、三郎を起こしたかと慌てて振りかえる。穏やかな日差しに溶けた蜂蜜色の柔らかい髪が、さらに薄く透けて見える。大きく体が一つ盛り上がり、そして沈み込んで終わった。どうやら、大丈夫だったようだ。身じろぎ一つない、さっきと変らぬ姿に、ほ、っと胸をなでおろす。この調子では、当分、目が覚めないだろう。彼の深い寝息が、とても心地良さそうで、誘われるように欠伸が一つ。

(なんか、考えるのが馬鹿らしくなってきた)

ゆるゆるとした眠気が、また襲ってくる。それに従うがままに、そっと音を殺しながらベッドに戻る。足を布団に突っ込むと、柔らかな温もりに包まれた。軋むベッドを宥めながら、彼の隣に体を滑り込ませる。幸せな夢が見れそうだ、と。自然と視界が暗くなってって----------。









***



ことことこと。優しい音が遠く近く寄せるように聞こえてきた。まるで揺り籠で揺られるような感覚に重なって、どこからか、懐かしくなるような、甘い匂いが漂ってきた。

「んー?」

うっすらと膜がかかったような視界の向こうに、真っ白の長いシャツ。ベットの対岸にあるキッチンに立つのは、少し猫背ぎみの彼。すらり、と晒された足の白さが目に眩しい。痒いんだろうか。片足で立って、もう片足で器用に足を掻いている。彼から零れてきたハミングは、俺の知らない曲だった。けど、自然と体がそのリズムを刻む。ひどく幸福だった。と、俺の視線に気がついたのか、それとも別の理由か。ふり返った三郎と目が合った。

「やっと起きた」
「……悪ぃ」

じとりとした視線に謝ると、彼がマグカップを片手に俺の方に寄ってきた。さっきした甘い匂いが一段と近くなる。

「ん、インスタントコーヒーは好きじゃないもんでな。勝手に冷蔵庫開けて悪いけど」
「牛乳?」
「ホットミルクと言え。ホットミルクと」

こだわりがあるのか、憮然として言いながら、俺の傍らに座ると三郎はマグを寄こした。手渡されたそれの温もりに指先が絆されて、そのまま口を付けと、ふわり、と蜜のような風味が口の中で溶け、自然と「うま」と感嘆が漏れ出た。そんな俺を見て、三郎は目尻を緩めて満足そうに微笑んだ。

「もしかして、レンジでチンとかじゃねぇの」
「あのなぁ。……一応プロなんですけど」

唇を尖らしてホットミルクを飲む三郎ごしに、狭苦しいキッチンが目に入った。普段はシンクの下に収納されたままの小さなホウロウ鍋がちょこんとコンロに乗っていた。「ありがとな」と告げると、鳶色の目が俺を捉えた。マグで隠れて口元は見えねぇけど、きっと笑ってるに違いない。カップから離れた唇は、ゆるやかな弧を描いていた。

「そうだ、ハチのシャツ借りた。昨日のが濡れてて気持ち悪かったからさ」
「あーどうりで見覚えのある服だと思った」

彼が着ているシャツを見遣りながら俺が返すと「もっと早く気付けよ」と三郎が混ぜ返した。何気ないやり取りなのに、自然と頬が緩む。彼の表情もほころんでいた。流れる空気は穏やかで温かくて、俺と三郎をぴったりと繋げていた。もう、これ以上ないってくらいに。









温かくて、くすぐったかった。そんな、雨上がりの朝。
ゆめのように








title by 星が水没