シンフォニーレイン







(俺の、あほ)

唇に今もある彼のの残滓を思い返しては、どうしようもない恥ずかしさに何度も心の中で自分を罵っては、のた打ち回る。ふれたい、その衝動に駆られるがままに行動してしまった自分の浅はかさが身にしみた。瞼が熱さを帯びて重たく、なんとなく世界が潤んで見える。どうやら、本格的に風邪をひいてしまったらしい。節々が痛む体では何もする気が起らなかった。かさかさと乾燥した喉が水分を欲しがっているのが分かったが、台所に向かうことすら面倒だった。ふわふわと浮遊するような気だるさを払拭しようと、ベッドの上で寝返りを打つ。

(熱のせい…なんて言ったって、相手は怒るよな)

パニック状態のまま店を飛び出してきたから、彼がどんな表情をしていたかは分からない。けど、普通なら、気持ち悪がられるだろう。2、3度会っただけの、しかも男にキスをされるなんて。次、会ったときに、どんな顔をすればいいのか、いや、そもそも会ってくれるのだろうか。彼の軽蔑の眼差しを想像しただけで、ギリギリと搾り取るような痛みが胃を襲い、身の毛がよだった。

(いっそのこと、このまま会わずに……)

そうすれば、一番楽だろう。最低なことだと分かっていた。けど、合わす顔がなかった。
遮光カーテンを閉め切った部屋から外の様子を伺い知ることはできねぇが、空気を燻らすような密やかな雨だれと、そこに時々混じる、車が跳ね上げる飛沫の音が俺の耳元まで届いた。おそらく、まだ雨が降っているのだろう。ずいぶんと降り続けているような気がした。家に戻ってくるなり、着替えもせずにベッドにダイブして悶々と悩みながら過ごしていたせいか、時間の経過が全く分からなくて。ぼんやりと辛うじて物の隈を捉える薄暗さに、いま何時だろう、と熱に漠たる頭で思う。夜であるのは確かだったが、時刻はさっぱりだった。そういえば、とジーンズのポケットに携帯をねじ込んでた事を思い出して、指先で探る。

(あ、れ?)

触れるのは柔らかな布地ばかりで、目的のそれを見つけることができなかった。慌てて起き上がり、改めてちゃんと手をポケットに入れて、掌にあるのは己の体温ばかりで…やっぱり、ない。どっかで落としてきた? ヤバイ、と焦る心宥め、自分の行動の記憶を辿る。部屋に帰ってきてから携帯をいじった記憶がなかった。正確には触る余裕がなかったというべきか。そういえば、あの喫茶店に入る前に友人にメールを打ったのが最後だった、と思い出す。

(って事は、彼の店から戻ってきたときに、道のどっかで落としてくたんだろうか?)

その可能性が高いように思えた。自分の行為の羞恥に、飛び出して全力疾走して家まで戻って来たのだ。落としたとしても気付かないだろう。もし、予想通り道端で落としたのなら、今頃、雨に打たれ、ずぶ濡れになって雨水に沈んでいるだろう。防水機能も働いているのかどうか分からねぇ古い機種なだけに、メモリが心配だった。けど、探しに行く気力など、沸かなかった。再び、ベッドに倒れこみ、布団に顔を埋める。

(ほんと、何やってるんだ、俺)

どん底な一日だった。完璧に風邪ひいて、携帯を落として、彼との関係も壊して。これが夢だったら、と降りてくる瞼の熱を受け入れようとした瞬間、叩き割るようなチャイムが響いた。雨の夜に訪ねてくるヤツなんて宅配業者ぐれぇだろう、とそのまま居留守を使おうと。だが、鳴動するチャイムの音は、だんだんと間隔が狭まっていき、そのうち連打へと代わってきて、目がすっかり冴えてしまっていた。

「…ったく、誰だよ」

さすがに、隣近所に迷惑だろう、とベッドから降りて玄関へと向かう。急かすような呼び鈴の音に、つっかけを履くのもそこそこに、そのまま三和土のところに片足を着く。濡れそぼった靴から浸み出てできた水たまりに足を突っ込んでしまったらしく、冷たさが背筋を這い上った。もう片方の脹脛に濡れた足裏を擦り寄せながら、のぞき窓を見ることもせず、何も考えずにチェーンを開けて、

「どーも」

絶句した。彼、だった。からからに乾いた喉は声すら搾り取られて。彼の熱が蘇った唇からは「っ、な、え、」と、まともな言葉が出てこない。ざわざわと走り出す心臓の音がこめかみで五月蝿い。驚きのあまり声を失った俺に、彼は「これ、あんたのだろ」と、傷だらけの携帯を差し出した。

「これ、」
「店に落ちてた。ないと困るだろうって。あー、ちなみに住所調べるために、中、見たから」

オーナー情報に住所入れとくならセキュリティ保護しといた方がいいんじゃね、と淡々と俺に告げる彼の表情からは、嫌悪は読み取れない。まるで、何事もなかったかのような態度。けど、彼の店で携帯を落としたって事は、キスをしてしまった事も夢じゃないわけで。何といえばいいのか分からず、押しつけられた携帯を受け取った。沈黙を満たしていくように、濃くなっていく湿気。「それじゃぁ、」と彼が踵を返すのを見た瞬間、予感が走った。ここで繋ぎとめなかったら、もう会えなくなる、と。勇気を出して会いに行くことなんかできなくて、きっと、このままになってしまう、と。

(それだけは、ぜってぇ、嫌だ)

「あ、あのさ、さっきの事なんだけど」

気がつけば、彼の腕を背後から掴んでいた。振り向いた彼の糖蜜のような眼に驚きが浮かんだ。彼を引きとめたのはよかったけど、そこから、また言葉が詰まってしまった。言わねぇと、けど、何て? ぐるりぐるりと螺旋を描いて底なし沼に落ちていきそうだ。自然と頭も垂れていく。と、雨音に、はぁ、と柔らかなため息が混じった。彼から洩らされたそれは、まるで、やんちゃな弟を叱る時のような、どことなく温かいもので、思わず顔を上げた。「あんたさ、ああやって誰にでもキスをするわけ?」と、どことなく苦笑いを浮かべた彼が俺を待っていた。

「違ぇ。好きな奴にしかしねぇよ」
「ふーん。なら、あんたは私が好きって事なんだな」

速攻で否定した俺に、直球な言葉を彼は投げてきた。頷くと、「まだ、知り合って間もないのに?」と訝るように問われた。俺が「あぁ」と断定すると、「名前すら知らないのに?」と、さらに言い募られる。それでも「好きだ」と告げると、彼は「こっちも、まだ、あんたのこと何一つ知らないんだが」と、当てこすりでも何でもなく事実を俺に知らしめた。

(やっぱ、気持ち悪ぃよな、普通)

沈み込む思い堕ちていく自分を、それでも、キスをしてしまった事への謝罪をしなければ、奮い立ててその言葉を口の端に乗せかけた時、ふ、と彼の眼差しが緩んだ。

「けど、いくつか知ってるか。メニューが分からないからホットを頼む、風邪を引いた馬鹿正直、雨男」
「最後のは違ぇって」
「そうなのか? いつも雨の日に会うから」
「たまたまだって」
「へぇ。まぁ、いいか。それで十分だな。好きになる理由」
「へ?」

意味が分からずに突っ立っていた俺の唇に、ひやりと冷たさが落ちた。俺は、すっかりと体温を奪われていた彼の背中に手を回した。徐々に浸透していくのはこちらの熱だろうか。どれくらい時間が経ったのだろう、温もりがゆっくりと離れて、雨とコーヒーの匂いが俺に残った。










「というわけで、まずはあんたの名前を教えてくれないか?」
雨に雨に雨に、








title by 星が水没