シンフォニーレイン







三度目も雨だった。
棚引く煙に似た、うっすらと空を覆う雲からは小糠雨がぱらついていた。くすんだ世界に、ぽつり、ぽつり、と咲く鮮やかな傘の花。けれども、傘を差す手間と濡れる手間とを天秤にかけた結果、大多数の人は早足で帰るという選択を選んだようだった。一日中、ぐずぐずとした天気で薄暗かったせいか、暮れなずんでいるのに気づくのが遅れた、そんな夕刻だった。

(けっこう、濡れたな)

たいして濡れねぇだろう、と踏んだが、細やかな雨粒をそのまま受ける頭頂は湿っていた。普段だったらどうってことのない雨も、風邪を引きかけていた体には堪えたようで。体の芯まで浸っていく冷たさに、骨の髄が寒気によだった。喉の辺りがトゲトゲと痛み、嫌な熱を帯びているのが分かる。むずむずする鼻と喉を誤魔化し宥めながら歩いていて、ふ、とその温かな光を見つけた。本能よりも、ずっと深い所で求めていた。会いたい、と。それに気がついた瞬間、足はすでに扉の手前にあるフロアマットを濡らしていた。ただでさえ傷んでいる髪が落ち着かない。跳ねる毛先を右手で抑えるよう歩いてきたせいで、真鍮のノブを握り損ねてもたついて。店主が顔を上げるのと、俺がドアを押しあけるのとが同時だった。

「……あんた、雨男なんだな」

別に狙ったわけじゃなく、偶然が重なっただけだった。けれども、穿つように向けられた呆れた目に、一瞬、ひるんだ。あんた、と呼ばれたことか、それとも雨男と言われたことと、どっちに突っ込もうか迷っているうちに、彼はさっさとカウンターの中に引っ込んだ。店の中は、誰もいない。

(つーか、俺、客なのに)

釈然としない気持ちのまま取り残された自分と感情。それでも、そのまま踵を返すことができなかった。馬鹿みたいにゆったりとした空気が、闖入した俺を受け入れてくれたような気がしたから。

「ホット」

この前と同じ席、カウンターで彼の目の前を陣取り、そう告げる。知り合いではなく、一応、客としてだったのだろう、冷水を準備していた彼の動きが止まった。グラスに注がれつつあった水が、一瞬、静止し、中の氷に弾けて小さく飛沫を上げた。柔らかな仕草で俺の方にコースターとグラスを差し出しながら、その注文に「分かりました」と恭しく答えたのは皮肉だろう。その証拠に、そう応えたくせに「たまには、違うのを頼んだらどうだ?」と茶化した声が飛んできた。一番最初に店を訪れた時に見たメニューを思い出し、思わず押し黙る。「まぁ、いいけど」と彼は唇に笑みを咲かせた。といっても、口の端を曲げたシニカルなものだったが。

「……あんなしゃれたやつ、分からねぇし、飲んだことねぇし」
「馬鹿正直だな」
「馬鹿だからな、しかたない」

何度も言われたことのある言葉に諦めたようにそう言うと、店主は声を立てて笑った。今度は、当てこすりのない、楽しげなそれ。よほどツボだったのか、笑いが喉や腹筋を引っかけて咳き込んでいた。思わず「大丈夫か」と俺に出されたコップの水を寄こす。それを受け取り、むせないように一口ずつ喉を潤した彼は、眼尻に浮かんだ涙を指先で拭った。

「まぁ、なら、色々試してみたらいい」
「いいけどよ」
「甘いものは、全然駄目か?」
「別に嫌いじゃないけど」
「酸っぱいものは?」

予想外の問いに「酸っぱい? …飲むのに?」と思わず聞き返すと「あぁ」と当然と言わんばかりに相槌を打たれた。飲み物で酸っぱいというイメージが沸かず「多分、大丈夫だと思う」と答えると彼は何も言わずに背を向けた。何を作るのかは言わないつもりらしい。まぁ、言われた所で分からねぇかもしれないけど。とりあえず、考えるのも面倒になってきて、放棄する。どことなく入り込んでくる隙間風からは雨の匂いはしたけれど、雨だれすら届かない店内は、彼の衣擦れとお湯が沸く音だけが静かに響いていた。









***



「お待たせしました」

なめらかな手つきで置かれた厚手の器は、耐熱ガラスなのだろうか、この前とは違って透明だった。彼の髪のような柔らかな色を湛えた部分と、靄で煙って見えない所の二層に分かれている。湯気に交じって立ち上るいい匂いが、すっと胸に沁み入ってきた。見慣れない色あいに、おそるおそるカップを手にすると、包む指先から温もりが広がっていく。

「何ていう飲み物なんだ?」
「まぁ、まずは飲んでみろよ」

そう誘われて、俺はカップにそっと口をつけた。舌の先を尖っていない柔らかな酸味が転がっていき、その後に、じんわりとした甘さが胸の奥に広がった。どことなく覚えのある柑橘系のそれに、記憶を辿っていって、ふ、と一つの答えに行き当たった。「ゆず?」と予想を呟くと、「正解」と悪戯っ子のように店主が笑った。確かめるように飲むと、爽やかさと微かな苦みは、ゆず特有のものだった。まろやかな口当たりのそれが、棘々しかった喉を癒していく。

「風邪なら、ゆず茶で体を温めるといい」

もう一口、と口にしようとした瞬間、思わぬ彼の言葉に驚き、俺はつい動きを止めていた。反動に追いつかなかった水面が、たぷん、と揺れた。表面に生まれた波紋が途切れ、細波が落ち着いた頃、俺はようやく「何で、分かるんだ?」と言葉を絞り出すことができた。

「何が?」
「だから、俺が風邪ひいたって」
「鼻声だったからな」

前とあんた何か違った感じがしたし、と微笑む彼に、あの時と同じように、心臓がことりと音を立てる。

「いつも、そうなのか?」
「何が?」
「客の様子見て、出すもの決めてるのか?」
「まさか。そんなことしてたら、まわっていかないだろ」
「だったら、」

痛いほど心臓が早鐘を打って、どうしようもなく焦って、ぐらりと視界が歪むくらい気持ち悪い。もしかして、期待する気持ちに押しつぶされそうだ。

「どうしてだと思う?」

挑発的な台詞が、柔らかな密色の横髪が指先を抜ける。さぐった先の彼の肌は、冷たかった。いや、俺が熱かったのかもしれねぇ。交じり合い解けていく温もり陶器のカップのように滑らかで、夢見てるみてぇだった。幻のような気がして、手繰り寄せて---------。

唇の熱が離れた。はっ、と艶やめいた声が耳を痺れさす。こぼれ落ちた息と入れ替わるように、胸に満ちてきた空気が刺すように痛い。はた、と気がついた。

(っ、俺っ…何やってるんだっ)

店主の顔を見る余裕もなく、俺はそのまま霧雨の中に逃げ出した。










残されたのは、甘ったるく、そして酸っぱい感情。
雨音リリック








title by 星が水没