シンフォニーレイン 滝打つような水圧に、コンビニで買った傘の細い骨は反り曲がっていた。天辺にある丸っこい石突からどんどん伝ってくる雨はすぐに傘布の先に溜まって、耐える間もなく地面へと落下していく。ビニールの柔らかな生地にぶつかって弾ける雨は、残響を感じさせる間もなく断続的に鈍い音を立てている。秋雨と言うには不似合いな突然の豪雨に、視界は白く霞んで見えた。射殺されそうな勢いの雨だった。びしゃびしゃと、足元に泥が跳ねるのも構わず、走り抜ける。ちょっとでも止まろうものなら、全身、ずぶ濡れになりそうだった。まだ昼間だというのに辺りはぼんやりと薄暗くて、通り沿いのコンビニや店の煌々としたネオンが眩しいぐらいだ。と、すぐ傍の携帯ショップから、人影が一つ飛び出した。その影はすぐに濡れそぼり、無残なほどの様相を呈していた。色の深みが増した薄茶色の髪は見覚えがあった。 (あ、) あの店主だった。大の男が泣いてしまった所を見られた、っう恥ずかしさから、あれ以来、一度も店には行ってなかった。もう関わる気なんて、なかった。仕事の行き帰りに通る道だから店を見かけるのは仕方ねぇけど、外側から眺めてるだけで十分だった。歩き続けた旅人が家の灯りを見つけた時のような、ほっとする光がそこに灯っているのを見ているだけで。なのに、気がつけば、足が追っかけていた。 「なぁ」 ぐい、と掴んだ肩は驚くほど華奢だった。俺の手を振り払いながら、体を反転させた彼は不審げな面持ちでこちらをじろじろと眺める。そりゃそうだろう、彼からしたら一回きりの客に体を触れられたんだ。いや、もしかしたら、こっちのことなんて覚えてないのかもしれない。あの時、垣間見えた物事に執着しなさそうな性格から、あまり周りに興味はなさそうに思えた。 (まぁ、それならそれで、いいけどな) その間も、騒々しさを増していく雨音が耳に痛い。うすっぺらい胸板が雨にさらされたシャツに透けて貼りついていて、俺は彼の方に傘を掲げて差した。 「入っていけよ」 「は?」 「傘、ねぇんだろ?」 うっとおしそうに上下していた視線が、ぴたり、と俺の足元で止まった。それから、顔を上げてまっすぐに俺を見据え「あぁ、この前の」と呟いた。恥ずかしさに、かっ、と熱が昇る。けれどそれ以上言葉を募らせることはなく、彼は俺の方へと近づいた。すぽりと傘の下に収まろうとした彼の髪が俺の唇に触れた。やわらかい。なんか、心臓が、ことり、と音を立てた。その感覚にびっくりして、思わず身を引くと左半身が雨に打たれた。服越しにも冷たさが浸透してきて、我慢しようにも風邪をひきそうで。 「……あ、あのさ、肩の辺りが濡れるんだけど」 「そうだな」 「もうちょっと、そっち行けねぇか?」 「あんたが、そんなに離れなきゃいいだろ」 元々、小さなビニル傘なのだ。男二人で分け合うにはあまりにも、狭すぎた。仕方なく、また体を彼の方へと寄せた。雨の匂いに混じって、なんか、懐かしい匂いがした。 *** 「今日は定休日なんだ」 彼が出歩いているということはそういうことなんだろうけど、店に灯りが灯っていないのは、なんとなく変な感じがした。簡素な店内が余計殺風景に見える。まぁ入って、と重たそうな扉を押さえつけながら促す彼に従って店の中に入った。窓際に置かれた観葉植物も採光が少ないせいか、黒々として見える。戸が閉まると、あんなに煩かった雨音が遮断された。部屋の中を湿った匂いが満ちていく。前以上にぬれ鼠になっていた俺は、どうすればいいのか分からなくてその場でたたらを踏んでいた。戸口に佇んでいるのを気にすることもなく彼は俺を追い越していって、店の中ほどに歩を進めた。彼が壁に手を伸ばすと、ぱちり、と小さな音が響き、温かみのある光が俺を包み込んだ。そのまま彼はカウンターの横から中のスペースへと入っていく。 「いいのか?」 「何が?」 腰を屈めているのか、カウンターの向こうに彼の姿は見えなかった。がさごそと何かを探っている音と返ってくる声に会話を紡ぐ。 「電気、付けて」 「あー、札をcloseにしてあるからいいだろ」 「ならいいけど」 体を起こした彼の片手には、真白のタオルが握られていた。もう片方の手にあるタオルで自分の体を拭きながら、彼はカウンター越しではなく俺の方に戻ってくると、掴んでいたそれを寄こした。 「ん」 手渡されたタオルを頭に覆うと、うっすらとコーヒーの香りがしみ込んでいるのが分かった。そのまま、タオルで頭を覆って、髪をガシガシと拭いて、ふ、と思いだした。さっきの彼の髪の匂いの正体に。どことなく優しい夜闇を思い起こす、そんな余薫。 (あぁ、これか) 胸に染み入ってくるそれに、そっと、そして、深く息を吸い込んだ。充足していくそれを密かに楽しんでいると、今日はコーヒーを入れてやるよ、と意味ありげな笑みを彼は浮かべた。それから、「まぁ、座ったら」と視線で店内の奥へと促した。それに誘われて、今日は彼と対面するカウンター席に腰を落ち着ける。ベルベット調の布が張られた高椅子は、柔らかすぎず硬すぎず、しっくりときた。 「一からだから、時間がかかるかもしれないが」 「別に、その辺で沸かした湯でいいのに」 「それは、嫌なんだ」 冷えた体を手っ取り早く暖めたくて、つい言ったけれど、きっぱりとした口調で断られた。その強さに思わず、息を呑む。よく考えれば、彼の信念を汚すものだったかも、と自分の言った台詞の愚かさに、急に心が冷えた。迷うことなく準備を始めた彼をそっと窺う。その表情からは、気分を害したようには読みとれず、ほっと胸を撫で下ろす。嫌われなくてよかった、と心の中で独り言を呟いた。 (あ、けど、俺、なんでそんな事、気にしてるんだ?) *** 窓の向こうを流れ落ちて行く雨だれを横目で追っていると、とろりとした薫香が俺の元へと届いた。彼の匂いだ。「ん」と彼が差し出した。たぷん、と柔らかな黒の湖面が波打つ。温かなカップを手を掛けると、かじかんでいた指先がほどけていくのが分かった。そのまま、口に含むとほどよい酸味とあの匂いが体を満たしていった。 「……うまいな」 自然と感嘆が零れた俺に、彼は何も言わず、ただ、幸せそうにほほ笑んだ。 (あぁ、そういうことか) また心臓が、ことり、と音を立てた。今度は、その理由を俺は知っていた。 雨だれとともに落ちる
title by 星が水没 |