シャウトし続けるうるさい音楽の元を辿り、ようやくそれが携帯の目覚ましだということに気づいた。まだ頭ん中は眠っていて、とりあえず、馬鹿みたいに震え続けているそれを手で探し出す。暴れ馬みたいに手の中で跳ねるそれの、スムーズ機能を止めるボタンを連打し、液晶の画面で時刻を確認する。予定より30分遅れの、目覚め。

(…昨日、寝付けれなかったからなぁ)

「んー、ん」

なんとか起きようと、足もとに絡みつくタオルケットを押しのけるようにして、伸びをする。一人では広すぎるベッドは、手を存分に伸ばしても冷たく空を切るだけで。いつもなら隣にあるはずの温もりを探している自分に気がついて、苦笑する。

------------もう、やつは、兵助はいないのに。



マットレスからずり落ちるように体を起こし、床に投げ出されたスリッパをはく。そういや、こんな小さなアパートに必要ない、って兵助に突っ込んだっけ。実家に住んでた頃は絶対にスリッパなんてはかなかったのに、やつの変なこだわりのせいでいつの間にか習慣になっていた。馬鹿みたいに兵助の面影を探してるのは、寝不足のせいだろうか。とりあえず眠気を覚まそうと洗面所に向かって、自分と対面して。 久しぶりに鏡を見たような気がした。

(つーか、ひでぇ顔だな)


そこにいるのは、自分なのに。げっそりと削げ返った生気のない顔色。



とりあえず鏡から視線を引きはがし、じゃっと蛇口をひねる。勢いよく飛び出した水流のまま顔を洗い、歯磨きをして、髪型を適当に整える。もう一度部屋に戻って、昨日のうちに用意しておいたジーンズに足を通して、洗ったばっかのシャツを着る。最後ぐらい格好つけようか、って思ったけど、今更な気がして、止めた。携帯と財布をポケットにねじ込んで、サイドボードに置いてあった腕時計のバンドをはめる。手首に触れる金属の部分は酷く冷たく、そして何の振動もなかった。秒針が静かに時を止めていた。小さな盤面のカレンダーの日付が、あの日のままなのは、神様の皮肉なんだろうか。








***



「これ、誕生日プレゼント」
「時計?」
「あぁ、待ち合わせに遅刻しないように、な」

ちくり、と棘のある言葉に、身の覚えのありすぎる自分としては恐縮するばかりで。

「悪ぃ……これ、ゼンマイ?」
「そう。あ、でもオートマティックだから身に着けてれば、勝手に巻き上がるって」
「へぇ、すげぇなぁ」
「しばらく身に着けてないと止まっちゃうらしいから、気をつけてな」
「付けていいか?」

なら、時間合わせてやるよ、と兵助の指が俺の腕に伸びてきた。触れた場所が、熱を帯びて-----。



***



「ハチと、もう、一緒にいられない」

兵助から時計を貰って、何回、誕生日を一緒に過ごしただろう。あの日、一つ一つの言葉を噛みしめるように、兵助は小さく、けれどはっきりと言った。次の日、俺が仕事に行っている間に兵助は自分の荷物をまとめて出て行った。この部屋に、俺一人を残して。

--------------それから、俺の時は止まってしまったかのようだった。



「合鍵を返したいんだけど」

突然、兵助からかかってきた電話は、やり直しを期待させるほど甘い声ではなく。それでも、俺は直接会って返してもらいたいことを言った。兵助は躊躇して、けれど、了承の言葉を返してきた。

(もう一度、兵助に会って……なんて言えばいいか分からんねぇけど、とにかく会いたい)



***



不意に、携帯の振動を感じて、我に帰った。兵助からの催促だろうかと慌てて携帯を取り出すと、サブ画面になったのは友人の名で。そういや、別れたってメールを入れてから、連絡を取ってないことを思い出した。けど、メールの受信だったし、色々聞かれるのが面倒だったからそのままポケットに携帯を戻して、ついでに止まったままの時計もはめることにする。

(…振動があれば、また、動き出すだろうな)



玄関に出てポストに押し込まれていたダイレクトメールの束に気づいて。 抜き取って玄関に据え付けられている棚に置こうとして、ふ、と正面の壁が視界に飛び込んできた。 兵助が飾っていたポスターは剥がされ、代わりにまるで切り抜かれたような白さが目に付いた。 日に焼けてクリーム色に変わった壁に、その色は目が痛いほどに突き刺さる。 やけにがらんとした部屋に見えるのは、気のせいじゃないだろう。

兵助のいた気配はあちらこちらに散逸しているのに、兵助の欠片は何一つ残っていない。

感傷を振り払う様に、俺は部屋のドアを力いっぱい閉めた。









***



指定された店に着いて、腕時計に視線を向ける。

「あれ? 身に付けたのに、動いてねぇなぁ」

仕方なく携帯を見ると、約束の時間10分前だった。付き合っていた時でさえ、こんなに早く着いたことがない、と思わず苦笑してしまう。いつもいつも兵助を待たせて、ケンカになることも多かったのに、今日だけは遅刻しなった自分がいる。



「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「いや……」
「えっと」
「…あとで連れがくるんで」

慣れていない状況に一瞬戸惑って、なんとか言葉を紡ぐと店員は営業スマイルを浮かべて「では、こちらへ」と言った。入り口とは逆の、窓側だけれど奥まった席へと足を進め、とりあえず店内が見渡せる側に座った。水とおしぼりを置きにきた店員に、「コーヒー」と告げて窓の向こうに視線を投げる。太陽の熱に焦がされ、しんどそうに歩いて行くTシャツに日傘の花。それとなく通りに兵助がいないか探すけれど見渡せる範囲にそれらしき人物はいなくて、運ばれてきたコーヒーに口をつけた。

カランカラン、と来店を示すベルに、はっと顔をあげた。「いらっしゃいませー」と店員の明るい声が通り抜けて、そこに別の店員の声が重なる。店員に人数を聞かれたのだろう「えっと、連れが後から来るかと」と答える聞き覚えのある声に、俺は「兵助」と店員との会話を遮った。辺りを見回す様子に、もう一度「兵助」と声を掛ける。俺の顔を見つけると驚いた表情を浮かべ、すぐに「あ、来てました」と店員に告げた。それから、付き合っていた頃と変わらない表情で、俺の元にやってきた。

「びっくりした、ハチが先に来てるなんて」
「俺もそう思った」
「明日は雨かもな」
「ひでぇなぁ」

そんな会話の合間に席に新たなおしぼりなどを置きにきた店員に、兵助は「コーヒー」と注文した。



「元気だった?」
「あぁ、まぁ、な」

店員が遠ざかった途端、会話が途切れた。他の客たちの楽しそうな声がやたらと耳に飛び込んでくる。なんとか沈黙を誤魔化そうと話しかけようとしても、言葉が出てこない。全てが空回りしそうで、怖い。



「これ、」

すると、兵助は握りしめていたものを、そっと、机の上に置いた。ことり、と音を立てたのは、俺の部屋の鍵。一緒に住んでいた頃は、重たそうなほどたくさん付いていたキーホルダーも外されて。射るような太陽の光の下で無機質な銀色が鈍く光って、小さな傷がいくつも付いているのが分かった。今更ながら、兵助が俺に会いにきた理由を思い出す。



「じゃぁ、」

俺が引き留める間もなく、兵助は別れの言葉を口にして。兵助が立ち上がろうとした瞬間、「お待たせしました」と俺達の間を割ってカップが置かれて。虚を突かれた兵助は、そのまま浮かした腰を下ろして、ほわほわと湯気を立てているコーヒーの上で視線を彷徨わせた。



「飲んでいけば? もったいねぇし」
「…あぁ」

俺の言葉に相槌を打つと、兵助はピッチャーに手を伸ばし、ミルクをカップに零した。夏の夜のようなどことなく明るい黒に落とされた白は、ゆっくりと内部を侵食し、濁っていき、斑になる。スプーンでくるくると円を描くと、渦となったミルクに透明な部分が消え、やがてベージュ色に落ち着いた。カップに手をかけると、水面が細波立った。



「ハチ、その時計、止まってる?」

一口飲むと、兵助は俺に視線を向けた。腕に巻いた時計に気が付いたようで、じっと視線がささげられる。

「なんか、止まっちまったみたいだ。オートマなのに振っても直らねぇし」
「あぁ、それな、一度止まったら、巻きあげなきゃいけないらしい」
「巻き上げる?」
「あぁ。貸して」

その言葉に時計を手首から外して渡すと、兵助は熱心に時計の周りを見て。何か部品を触って、確かめるように眺めて。もう一度、何かに触って、それから何度も時計を振った。盤面とにらめっこしていた兵助は、「ん、これで動いたと思う」と俺の掌にそれを乗せた。返された腕時計には、兵助のぬくもりが宿っていて。俺の掌に震動が伝わってくる。静かに、確かに。

------------------------------時が、動きだしていた。



「店の人に教えてもらったの、ハチに伝えるの忘れてたな」

柔らかいコーヒーの色を見つめながら、そう呟く兵助の名前を呼ぶ。



「兵助」
「ん?」

今更かもしれねぇ。もう、とっくに兵助は俺に愛想を尽かせてるかもしれねぇ。Noと言われるかもしれない。けど、今、言わなきゃ絶対に後悔する。このままじゃ、どこにも進めない。時が止まったままだ。



「俺は、今も、兵助が好きだ」
「ハチ……」
「もう一度、やり直したい」


---------------俺も、いや、今度は俺が時を動かしてかなきゃ、いけないんだ。












(兵助は小さく笑って、それからゆっくりと俺の方に手を伸ばした)
それからふたりは           さよならに泣いた








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