チョコレートより、      平和な2月14日をください。




チャイムもなしに部屋に入ってくるなり、「腹が減った。天ぷらが食べたい」と言うと、仙蔵はでっかいビーズクッションに座り体をその中に埋め込んだ。手近にあったクッションを抱え込んでそこに顎を乗せれば、ぶすり、と険しい表情が潜んでいた。いつも以上に不機嫌な仙蔵に、触らぬ神にたたりなし、と、文句を返すこともなく冷蔵庫の中を覗きこめば、まるでこのことを予想したかのような具材。これなら作れそうだと判断し、俺は調理を開始した。

(けれど、何やらずっと仙蔵に見られているような気がするんだが)

台所と仙蔵がいる所とでは、すだれで隔たれているはずなのに、穿つような仙蔵の眼差しが痛い。下ごしらえを終えて天ぷら鍋に油を注ぎ火を付けてもなお、俺はその視線に晒されていた。冬だというのに嫌な汗が、つぅ、と背中を伝う。仙蔵があんな顔をしている理由も分からず、ただひたすらに耐える。

(俺、何かやったか?)

居心地の悪さ感じながらも、それを聞くということは自分から死にに行くようなものなきがして、黙々と天ぷら作りを続けるしかなかった。くるりと丸まり尻尾の先が美しい朱に染まりつつあるエビ。菜箸を黄金色の油の中で軽く転がしていると、ふ、と家電の音が耳に届いた。

「悪ぃ、電話に出てくれ」

あと少しで揚がり頃のエビ。その出来具合が気になって、背中を向けたまま後ろに声をかけると、仙蔵が鼻を鳴らすのが分かった。

「ふん。何で私が」
「今、手が離せないんだよ。お前の方が近いだろうが」
「面倒だ」
「お前、人に飯作らせといて、それはねーだろ」

それでも動かない気配に、仕方なくコンロの火を弱めて。台所を隔てている玉すだれをかき分けて、仙蔵がいる居間の方に顔を出す。じゃらり、と鬱陶しく零れ落ちてくるすだれを、菜箸を持ってない方の手で押える。仙蔵はさっきと変わらず、面倒そうにビーズクッションに体を投げ出し、雑誌をめくっていた。

「あいつらじゃないのか」
「あいつらだったら、携帯だろ」
「なら、勧誘だろう」
「そんなに文句を言うなら、じゃぁ代わりに火を見てろよ」

交代するにしろ何にしろ、一端、火加減を戻そうと台所へと戻ろうとすると、ようやく衣擦れの音がした。さっきの言葉に諦めたのだろう。仙蔵が電話に向かうのが分かった。

「もしもし、」

いつもの倍以上高い声が聞こえてきた。勧誘かなんかだろうか、と仙蔵の会話から判断しようと聞き耳を立てる。けれど、じゅぅ、じゅうと跳ねる油の音に邪魔をされて。何を言ってるのか分からない。あんまり静かで、もう電話が終わってしまったのだろうか、とコンロの火を止めた。しゅわしゅわと天ぷらから吐き出てくる泡が小さくなったのを頃合いにして。もう電話は終わっただろう、と最後の一つを新聞紙を敷いたバッドに上げ、仙蔵の方に声をかける。

「仙蔵、何だって?」
「あ、……はい。ちょっと、お待ちください。代わりますね」

驚いたことに、まだ、電話は繋がっていたらしい。口達者な仙蔵のことだ。勧誘電話なら相手が立ち上がれなくなるぐらいの口撃をするが、どうもそんな様子はない。のれんをくぐって仙蔵の方へ近づけば、さっきまでよそゆきだった仙蔵の声は途端に低くなる。

「お前に電話」
「誰からだ?」
「知らない。喜べ、可愛い女の子だぞ」

そう言うと、投げつけられるように子機を渡された。女? と内心は思ったが、とりあえず、ピカピカと黄緑色に主張する保留ボタンを押して話口に「もしもし」と投げかけると、受話器の向こうで小さく息を呑むのが分かった。名乗った声は聞き覚えがある。バイト先の仲間だ。

「あぁ、…うん、うん。……今から? あぁ、わかった」

電話口で言われた思いもよらない相手の申し出に、つい、傍にいる仙蔵を意識してしまう。仙蔵は部屋に放り出してあった置いてあった雑誌を再び読んでいるようで。こちらを見ることもなく、ページを繰っている。ただでさえ、つっかえながら言ってる彼女の言葉は、ちっとも耳に入ってこない。どりあえず、会ってほしい、ということだけは分かった。

「じゃぁ」

断ろうか、と迷いつつも、相手の泣き出しそうな声音に承諾の返事を返し、外線ボタンを切る。

(なんか、面倒だな。こういうの、苦手だ)

億劫な気持だけがぐずぐずとあったが、約束したからには行かなければならないだろう。

「悪ぃ、ちょっと出てくる」

壁に掛けられていた紺色のコートを手にし、振り返ると仙蔵と目が合った。こんな時間に出かけるなんて、何か文句を言われるか、と思わず身を硬くする。けれど、咎める言葉の代わりに仙蔵から出てきたのは「天ぷらは?」というものだった。

「もう、できてる。先、食ってていいぞ」
「そんなに掛かるのか?」
「さぁ? 何の用か分からねぇしな。用件聞いても、電話じゃ、って言われた。すぐ傍の公園まで来てるんだと」
「そうか」

たいして興味のなさそうに言う仙蔵を、思わず凝視してしまった。

(俺って、仙蔵にちゃんと興味を持たれてるのか?)

最近見たネットの「それって、本当に付きあってる?」という恋愛記事が、不意にフラッシュバックする。じっと見つめていた俺を不思議に思ったのだろう、「何だ?」と仙蔵が訊ねてきた。女々しいと思いつつ、喉がカラカラになりながら、仙蔵に聞き返す。

(…えぇい! プライドなんて、糞くらえだ!)

「なぁ」
「だから、何だ?」
「誰だ、って聞かないんだな」
「今日は、女の子の、女の子による女の子のための日だからな」
「は? あぁ、今日、バレンタインか」

仙蔵の言葉に、思わず壁に掛かっているカレンダーに目をむける。

(そうじゃなくて、だな)

「……早く行ってこい。早く帰ってこないと、天ぷらがなくなるぞ」

さらに言葉を募ろうとした矢先、思わぬ仙蔵の言葉に心臓が飛び出そうになる。

「…なぁ、仙蔵。それってよ」
「何だ?」
「もしかして嫉妬してる?」

嬉しくて声の上ずったをに、「うるさい……」と睨みつけて。それから仙蔵は俺に抱きついてきて、耳元で囁いた。「早く断ってこい」と。その言葉に、思わず笑みが零れてしまった。

(ますますきつくなる眼差しも可愛く思えるなんて、俺も相当なものかもしれない。)

title by メガロポリス