音もなく降ってきた雨は、夜を煙らせていた。

(あぁ、寝てしまったのか)

今何時頃なのだろうか、と部屋の時計を見ようと回旋させた首が妙な部分で回らなくなって、自分が床に転がっていることに気が付いた。どうやら部屋に入るなり、そのまま倒れ込むようにして寝てしまったのだろう。
ぎし、っと節々が軋む。その痛みに、それ以上首を回して時計の針を読むことは諦めたが、とりあえず、まだ朝までは遠そうだ。出かける時のまま開いているカーテンの向こう側は、深海の淵に迷い込んでしまったかのように暗いから。今更な気もしたが、少しでもベッドで寝た方がましだろうと体を引き起こそうとして、

「っ」

疼痛がこめかみを押さえ込んだ。最初の店で度数の強いものを何杯も開けて。そのまま店を何度か変えてさらに杯を重ねた。琥珀に埋もれたグラスが歪みだしたところあたりまでは記憶にあるけれど、その後はさっぱりだ。家にたどり着けただけましなんだろうな、とまだ鼻孔を過ぎていくアルコールの匂いのきつさに、我ながら呆れる。水でも飲んでアルコールを抜こうとベッドからどうにか起きあがって、

(あ……)

ぼんやりとした白が目に留まった。---------喪中葉書。もちろん家を出る前はきちんと机に束ねて置いてあったはずだから、帰ってきたときにふらついた足にでも引っかけて落としてしまったのだろう。所々斑になって床に散らばているそれに思い知らされる。あぁ、ひとりになってしまった、と。

(もうとっくの前になってたはずなのに、な……)

堅苦しい、けれどもよく目にする文面。印刷会社に頼んだそれの、(おそらくは、その一部だけが変わっているのだろう)日付は、まだ春の浅い頃が刻まれていた。半年以上前だ。ばあちゃんが死んでしまったのは。

けれど、そのことを実感したのは、つい昨日のことだった。昨日、いや今日なのかそれすらあやふやなくらい酔っていて。けれど、頭の底はひどく冴え渡っていた。---------あいつに出さなければ、という妙な脅迫概念の元、表名に綴ったのだ。鉢屋三郎様、と。

けど、

(こっちも印刷してもらえばよかったな)

こんな風に、爛れるような痛みを覚えるならば。
裏のよくある定型面は印刷にしても仕方ないと思ったけれど、宛名だけは機械的な文字にするのが何となく心苦しくて。ばあちゃんの知り合いだ。さほど多いわけではないから、と、俺は葬儀後に葬式会社からもらった芳名帳から名前を拾うことにして裏面だけ印刷会社に頼んだ。
葬儀会社からは『この年齢にしては多い方ですよ』と参列の時に言われたが、ばあちゃんの人柄故だろう。それでも、もうこの歳になってしまえば生きている知り合いなどそうそう多くないのだろう。さほど時間も掛からない内に宛名を書き終えた葉書は、数枚だけ余ってしまった。
もったいないが使い道があるわけでもない。二度目はないのだから。そのままシュレッダーに掛けようとして、けど、ふ、と思い浮かんだのはあいつの、三郎の顔だった。
三郎の名前は芳名帳にはなかった。

(当たり前だ、言わなかったのだから)



俺と三郎は恋人だった。正直、恋人という甘い言葉に括ってもいいものかは分からなかったが、少なくともばあちゃんにはそう紹介したし(正確に言えば、あいつが勝手にそう名乗った)、ばあちゃんもそう受け入れてくれていたように思う。
ばあちゃんと一緒にいるのが居心地がいい、と三郎は俺の家に入り浸るようになった。俺が家に帰るとよく三郎がばあちゃんの部屋にいた。三郎の何が気に入ったのか知らないが、ばあちゃんも三郎のやつが来ないと「今日は来ないのかい?」とどことなく寂しそうだった。
楽しそうにしている二人の姿は、まるで本当の祖母と孫のようだった。俺はあまり口数が多くない。三郎もそうだと思っていたけれど、どうもそれは俺の前だけなようで、ばあちゃんと話している時は俺には決して見せない笑顔を浮かべていた。
嫉妬、いや、お気に入りのおもちゃが取られた子どもみたいな、そんな馬鹿げた感情を抱いた。三郎にもばあちゃんにも。三郎には、俺の方が本当の孫なのに、と。三郎には、俺にはそんな笑顔を見せないくせに、と。
本当に馬鹿げてる。
けど、その馬鹿げた感情が崩れ落ちた時、俺は三郎に別れを告げた。三郎は理由も聞かず、即座に首を縦に振った。分かった、と。ばあちゃんが倒れて死んだのは、その直後のことだった。
だから、三郎はばあちゃんが死んだことは知らない。知らせるつもりはなかった。ただ、一瞬、浮かんだあいつの顔に、葉書に伸びかけた指は部屋の鍵を掴んでいた。そのまま外に飲みに行って、全てを酒で流してしまおうと。

そう、知らせるつもりはなかった。

そうそのはずだった-------------なのに、帰ってきた俺はまるで何かの呪いを受けたかのようにその名を綴っていた。いや、呪いを掛けるように、だろうか。鉢屋三郎、という彼の名を。

けど、今は、それは葉書の海に潜り込んでしまってどこにあるのか分からなくなってしまっていた。もちろん、この散らばった葉書の中から、あいつの一枚だけ探し出して、棄てることもできる。けど、俺はまだ残ってるアルコールのせいにして、一緒に拾い集めた。



***

(やっと終わった……今、何時だ?)

いつもの癖で戸棚を見て--------何もない板目に、そこにあったはずの目覚まし時計はとっくに仕舞ったことを思い出す。代わりに、なくさないように、とポケットに突っ込んだままの携帯を取り出せば、もう数時間も経たない内に日付が、いや、年が変わる時刻が現れた。

(まぁ、あんまり実感がないけどな)

ばあちゃんが生きていた頃は、それなりにおせちの準備を手伝ったり、鏡餅を飾ったりもしたものだが、今年は喪中だからその必要もない。それに、それどころじゃなかった。ありとあらゆるものを片づけるだけで、大学の短い冬休みは終わってしまうだろう。
大掃除なんて大晦日までするのにね、と年内のゴミ出しが終わっていることを嘆いていた友人の顔がふと思い浮かぶ。何を棄てればいいのか決められなくって、と迷った挙げ句、まぁいっか、と最終的に擲って、毎年すっきりさっぱりとして新年を迎える彼とは違い、日頃からあまり物を溜め込む性分ではないとはいえ、さすがに今回は違った。

(もう一週間だけ引き延ばしといてよかったな)

契約書通りだったなら、正月早々、役所も店も開いてない中で右往左往する羽目になっただろう。大家さんの気遣いにありがたみを覚えながら作業の続きに取りかかろうとした俺の耳に、錆れたチャイムの音が響いた。

(雷蔵かな?)

前述に上がった友人から届いてた数日前に初詣の誘いのメールに返信していなかったことをふと思い出す。筆無精な(メールの場合も筆というのかはさておき)俺が返事をしなくても、誘いに来てくれるのは雷蔵のまめな性格ゆえだろう。返事しなかったことを謝らないとな、と思いつつ、そのまま何げなしに、古びたドアを開けて、

「よぉ」
「……三郎」

瞬きすら凍るくらい冷たい夜が、俺たちの間に横たわっていた。



***

線香を上げに来たんだ、と先んじられては断ることはできなかった。何で、と言い掛けて、自分が喪中葉書を出したことを思いだす。最初に片づけに取りかかったせいか、空っぽになってしまったばあちゃんの部屋の中で、ぽつん、と取り残されている遺影と位牌。モノトーンに沈む部屋はひどく昏いものだった。
線香に火を灯し目を瞑る三郎の横顔に、かつての面影は全く重ならない。何もかもが変わってしまった。ばあちゃんはもういないし、三郎が笑顔を見せることも、もうないのだろう。あまりに淋しい光景だった。

「……引っ越すのか?」

どれくらい、彼は祈っていたのだろうか、ふ、と顔を上げた三郎は俺を見やった。

「あぁ……元々、去年一杯で契約が切れることになってたんだ。さすがに学生一人でこのアパートを維持するのは難しいから」

言い訳じみたことを付け足したのは、勘違いをされたくなかったからだ。お前から逃げる為じゃない、と。けど、慌てて口にしたせいか「そっか」と相づちを打った三郎は俺を覗き込むようにして見ていた。その透いた目に、気づかされる。やっぱり自分は三郎から逃げるのだろう、と。

(っ)

握った拳の中で爪が食い込む。その痛みですらたいしたことのないように思える胸の軋み。三郎の視線をどう躱そうかと思案していると、ポケットの中で携帯が震えた。断りも入れずに開いた先には、雷蔵から初詣の行き先と待ち合わせの時間と他の友人等が来ることが示されていた。チャンスとばかりに「悪いけど、この後、ちょっと出かけるから」と三郎に告げれば、ようやく、その真っ直ぐな眼差しから解放される。

「……悪かったな、急に訪ねてきて」
「や、別に……本当にありがとうな」

これで、最後だろう。そのしめやかな予感を胸に抱きながら、俺は立ち上がった。三郎は何も言わなかった。

***



「兵助」

ぎぃ、と彼が押し開けたドアの向こうに、ひっそりとした闇が見えた。遠くで鳴り響く除夜の鐘はひどく穏やかで。世界はひどく凪いでいた。俺と三郎を除いて。

「何だ?」
「……どこ行くんだ?」

どこ、というのは、この後のことじゃないだろう。もっと先の話のことだ。そう直感が疼いていた。だが、開き掛けた唇は冬の冷たい風を食むだけで、震わしたはずの音は凍りついてしまって響くことはなかった。沈黙が雪のように音もなく降り積もる。

「……あのさ、お年玉付きの年賀葉書当選番号っていつまで有効か知ってるか?」

どれくらいそうしていただろうか、唐突な問いかけに意味が分からず久しぶりに音になった言葉は「は?」という疑問だった。吐き出した白が消える前に三郎が「来年の7月の終わりまでなんだとさ」と、一人で答えを出す。

「それが?」

いったい自分と何が関係あるのか、と目で問いかければ、三郎はポケットの中に手を突っ込んだ。しばらく漁っていると、やがて半分に折られた紙を俺の方に「やる」と突きだした。

「お前に出すはずだった年賀状」
「俺に?」
「あぁ。喪中葉書もらう前に書いてしまったからな」
「それは悪かったな……」
「どうせお前のことだから、ぐだぐだ悩んだ末に出してくれたんだろうけど……待てばよかった」

少しだけ迷って「年賀状を書くことを?」と尋ねたが、三郎は小さく笑うだけだった。けど、それで十分に伝わってくる。年賀状のことだけじゃないのだろう、と。

「とにかく、兵助にやるよ」

押しつけようとしてくる三郎に、だからといって喪中であることには変わりないから受け取れない、と突っぱねようとした瞬間、ふ、と飛び込んできた文字に、気が付けば俺は別のことを口にしていた。

「……これ、お前の住所と名前が書いてあるぞ」

俺にくれると言いながらも宛名は『鉢屋三郎』となっていたし、そこに綴られた住所もまた三郎のもので。意味が分からず、つい、そう突っ込めば三郎のやつは俺の掌に無理矢理その葉書をねじ込んだ。

「三郎?」
「待ってるから」

何を、と言わなかった。ただ一言、その言葉を告げた三郎は、おい、と言うよりも先に踵を返してしまった。待ってる。年賀状を、新しい住所を、俺からの連絡を。

「番号、当たってるといけねぇから、7月の終わりまでに必ず出せよ」

そう続いた言葉に、それが三郎のずるさじゃないのだ、と知る。逃げ続けた俺が、今、また逃げることを許してくれるのだ、と。それは分かりづらい、すごく分かりづらいけれど、三郎の優しさなのだった。

(馬鹿だろ)

俺も、三郎も。

「明日の朝、ポスト、ちゃんと見ろよ」

闇に溶け消える三郎の背中が小さく笑った気がして、俺は泣いた。







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