(さっさと部屋のこたつに入りたいな)

はぁ、と口から零れた途端、視界に滲む白。ぼんやりと朝に眺めたニュースを思い出し、この冬一番の寒さをいったい何度更新したら春が来るのだろうか、と心の中で悪態を吐きつつ歩き続ける。
更に冷たい顔にぶつかってくる凍て風を避けるために自然と前のめりになるからだろう、さっきから視界にあるのは乾いたアスファルトを擦るようにして足早に歩く自分の革靴だけだった。
いくらコートを着ているとはいえ、その下をスーツで帰ってくるのは寒いと思い、実家にセーター類は持ち込んで出てくる前に着替えたのだが、靴まで替えを持ってくのは面倒で。そのまま履いて帰ってきたのだが、そこだけがやけにぴしっと。そのアンバランスさが妙に目に付く。

(まぁ、どうせ暗いだろうから誰かに会っても分からないだろうけど)

人気のまったくない道はしんしんと静寂が積もり続けていて、むしろ誰かと会うなんて確率も少なそうだった。普段から洒落込む方ではない(むしろあまり気を払う方じゃない)のだ。清潔さには気を使っているが、センスもあるとは言い難い。だから格好付けるだなんて今更すぎるだろう。
それでも、誰かと会ったら、と思ってしまうのは、履き心地の悪さがそこにあるからかもしれない。大学の入学式で使って以来、一回も履いてない本革の靴。値段が値段なだけに気軽に履くことができず、ずっと玄関に備えられている下駄箱の一番下に眠っていた。
だが成人式に結局参列しなければならないという話になって。ひっくり返して出してきたそれは、あまりに履き慣れてなくって。まるで他人の靴を借りてきてしまったような、そんな気持ちで一日を過ごした。

(来年になれば、靴底をすり減らすくらいこの靴を使うのかもしれないけど、な)

就職活動なりなんなりが始まれば慣れるのかもしれない。スーツも革靴も。けれど、今日の自分は(いや、自分だけでなく周りもだろうが)完全に着られていた感があった。それこそ、七五三で着物を着せらた覚束ない足取りの子どもみたいだった。

(そのくせ大人の仲間入りとか何とかだなんて笑えるよな)

自分への揶揄を笑い噛む。全くもってそんな実感を持つことはない。ぼんやりとしか聞いてなかったが代表者の挨拶の言葉に出てきた『正装をして背筋が伸びるような』という感覚とはほど遠く、ただただ窮屈さしか覚えなかったのは、無理矢理着せられたという思いが強いのかもしれない。--------本当は出るつもりなどなかったのだ。成人式だなんて。
親からさんざん出席するのかどうかと連絡があったけど全部無視をしていて、最終的に出ることに決めたのは正月に帰ったときに「どうするの?」と母親にややヒステリックに聞かれた時のことだった。
同窓会の方の幹事には随分と早くに「行けない」と連絡してあったのだが、成人式の式自体は出るか否か結論を先延ばしにしていた。まぁ、最悪「風邪を引いたから」と前日に連絡を入れればいいだろう、と。
成人式に参加するかどうかという決定をずるずると引き延ばしていたのは、一応、両親の思いも分かってはいたからだ。--------一生に一度のことだから、という。

(それは分からなくはないけど、けど、別に会いたいやつがいるわけじゃないしな……)

大学で外に出るまで生まれも育ちもずっと同じ町だったが、元々、外向的な性格とは言えない自分には友人が多いとは言えなかった。高校の友人こそ、今でも時々メールはしているが同じ町出身、つまりは中学にまで遡ればメールアドレスが携帯に入っているという程度の交友関係になってしまうのが大多数だ。
そのアドレスも今も届くのかどうかだなんて知らない。高校入学前に『これからもよろしく』と義理で交わした以来、一度もメールしてないのだ。それくらいの薄い付き合いしかしてないやつらと会っても正直なところ何を話せばいいのか分からなかった。
だから、切々と母親に「行けばいいじゃない、久しぶりの友だちにも会えるのだし」と訴えられ、父親にも「区切りなのだからちゃんと行きなさい」と常識のように語られ、両親の思いはよく分かっていたが、正直、行きたいという感じにはなれなかった。
ただ「おじいちゃんもおばあちゃんも、あんたの晴れ姿を楽しみにしてるのだから」と言われてしまえば、さすがに無碍にする勇気はなかった。忙しい共働きの両親に代わって俺を育ててくれた祖父母も随分な年齢だ。あと何回孝行ができるだろうか、と考えた時に「やっぱり行かない」という言葉は飲み込みざるを得なかった。
他にもう一つだけ理由があって、最終的に、俺は成人式は出ることにした。

だが、実際、会場に着いてみて、後悔しかなかった。------------やっぱり止めておけばよかった、と。

とりあえず葉書に書かれた町のホールでは、想像通り誰かと特に話が弾むこともなかった。久しぶりだな、と話しかけてきたやつへの近況報告が終わればすぐにできてしまった沈黙。話しかけようにも、そもそも相手の名前もよく覚えていない。微妙な空気になってしまった俺たちを開会アナウンスが救ってくれて。ほ、っと俺は「じゃぁ」とそいつと別れて席に着いたのだった。
式の間は、ほとんどは、ぼんやりと前を向いているだけで済んだが、これ以上、この場所にいる必要もないだろう、と俺は終わりの言葉と同時に席を立つことにした。さっさと家に戻ると着替えて祖父母と少しだけ話をした後、「火曜日にテストがあってすぐ帰らないと間に合わないから」と両親への言葉もそこそこに駅に向かったのだ。
そこから電車に揺られて半日以上。とっぷりと暮れた世界に現れた駅のホームの灯りは一日ぶりでしかないのに、何故か安堵を呼び覚ませた。

(故郷はあの町のはずなのに、な……)

フィラメントが切れかけているせいで、パカパカと点滅している電灯。それですら、どこか、ほっとする。ここがまるで故郷であるかのように。ひっそりと噛みしめたのは嗤いか淋しさか。
何の未練もない、とまで言い切ってしまうのはさすがにあれだとは思うが、成人式に出て、大学卒業後に故郷に帰る気持ちはますます薄れてしまった。

(酷い息子、って言われてしまいそうだけどな……)

一応、盆と暮れには実家に帰ったが、それも数日だけだ。大学生という身分は贅沢なもので、それ以外にも春休みやゴールデンウィークなど、それなりにまとまった休みあり、帰省しようと思えば帰れなくもない。だが、俺は「シフトが入ってるから」とバイトを口実に一回も帰ってない。本当の理由は、ただただ詮索されうのが嫌だからだ。
ここまで何不自由なく育ててくれた両親は、長男である俺が県外に出ているのは大学だけだと信じている。就職を機に、再び戻ってくる、と。

(いや、信じているというよりは、切実に願っているということだろうな)

直接的に言われたわけではないが、まだ二年だというのにそれとなく地元企業について刷り込んで来たり、彼女はいないのかと尋ねてきたりしてくるのは、そういう理由だろう。---------両親の中にある俺へのビジョンは、両親が住むあの町に俺も住んで近くで働いて、結婚して可愛い孫を見せにくる、というものだった。

(いつかは言わないと、な……)

そう描いているものは絵空事であり、決して叶うことのない願いだ、と。なぜなら、あの町には戻らないから。その近くで働くこともあり得ないから。----------そして、好きになったやつが、男だったから。だから両親の手に孫を抱かせてやることは、きっとない。悲しむだろう、というのは重々分かっている。

(いっそのこと、勘当されてしまえばいいのかもしれないけど)

そうしたら、すっきり、さっぱりできるのに、なんて妙なことを考えてしまうのは、今日の式で自分が、もはや『子ども』ではなく『大人』なのだと突きつけられたからだろうか。

(ちっとも、実感はないけれど……)

中学や高校を卒業して働いているやつもいたし、二十歳で既に結婚している人もいた。中には赤子を連れてきている人もいて、もちろん、この国の法律では全く持って問題のないことなのだが、己が『大人』だとは未だに思えない自分としては、まるで世界を分かたれたかのような、そんな気持ちを覚えてしまった。

(あの頃は、あんなにも『大人』に憧れていたのに、な……)

今となっては『大人』が分からない。
俺はまだ誕生日を迎えてないから正式に言えば『大人』じゃないのだろうが、実際のところ誕生日の日に『はい、今日から大人です』と言われても、十九の今の俺と二十の俺がそう変わるとは思えなかった。

「大人、か……」

正月なんかに親戚のおばちゃんなんかに会うと「あらぁ大人になったわねぇ」なんて言われるけれど、いったい何をもってすれば『大人』になったと言えるのだろうか。二十歳になったら? 煙草を吸えるようになったら? 

(……っ、馬鹿なこと考えてないで、さっさと帰ろう)

撫でられた北風にくしゃみを一つ。ようやく自分が立ち止まっていたことに気づく。季節に取り残された枯れ葉が、からからとアスファルトを掠れ転がっていく。はぁ、と潰れた溜息が視界を占める闇を濁すのを目に、俺は思考を閉ざすために歩速を早めた。



***

(寒い……さっさと暖まりたい)

風を避けるために身を丸めて縮込ませ、俯いたままひたすらに歩き続け、気が付けばいつものようにアパートの金属製の階段を昇っていた。カンカン、とやたらと耳に突く音に、帰ってきたのだ、と実感する。だが、

(あ……けど、帰っても俺一人だったんだよな)

いざ部屋を前にして、結局の所を思い出した。ほわりと淡い光が辺りの闇を緩めている。玄関の横の窓から滲む明かりは、いつもと変わらない。「ただいま」とドアを開ければ、いつものようにあいつが迎え入れてくれそうだった。「おかえり」と。
けど、ハチは、いない。
あたかも人がいるような空気を作り出している明かりは、帰省前に俺が防犯のために点けたものだった。どうせ冷たいであろう、人気のない部屋のことを想像し、ため息が一つ前を白く滲ませた。いつもみたいに帰ったところであいつがいるわけじゃない。「おかえり」という言葉が。

(ハチも成人式だもんなぁ)

最終的に俺が成人式に出ようと思った理由の一つが、ハチの不在だった。

俺とは違い、随分と前から出席することを決めていたらしいハチは「兵助はどうするんだ?」としきりと気にしていた。行く予定がないことを伝えれば母親同様「昔のダチとかと会えるだなんてそうそうないぜ」と言ってきたが、それでも俺が渋い顔をしていると「まぁ、兵助が決めることだからな」とあっさりと意見を翻した。
だが、それが本意とは思えなかった。根っからのお祭り男だし、日頃の交友関係からしても地元にたくさんの友だちがいるのは想像に難くない。ハチにとって成人式は一大イベントなのだろう-----------それを羨ましいと思うことはなかった。ただただ、淋しかった。

(嫉妬、だな……)

自分にそこまでして会いたいと思う友人がいないことではなく--------ハチにそこまでして会いたいと思われている友人が、羨ましかった。今、ハチの傍にいるのは自分なのだ。嫉妬するだなんて馬鹿げている、そう呑み込もうとしたけれど、どうしても一度濁った感情はなかなか漉し切ることはできなかった。
そんな気持ちを、ひとり、このアパートで抱えて待つのはちょっと辛い、と俺は気を紛らわすために成人式に参加したのだが、

(結局、こうやってすぐに帰ってくるのだったら、一緒だったかもな……帰ってもハチはいないのだから)

昨日、出て行くときにきちんと鞄の内ポケットにしまった鍵を取り出せば、数秒も経たない内に冷え込んでいく。ぴり、っと指先を突く痛み。部屋も同じように、いや、それ以上の冷たさに沈んでいるのかと思うと、どうしようもなく胸が軋んだ。

「っ」

混濁した気持ちでひとりで待つのが淋しくて嫌で。だから、自分も成人式に出たのだけれど、暗澹とした気持ちのまま帰って誰もいなかった方が、もっと昏く淋しい。

(今更、気づいたところで仕方ない……)

こんな所で突っ立ってたら風邪を引いてしまう。ハチのいない部屋がどれだけ寒く感じても、実際のところは外よりも部屋の中の方が温かいのだから。だからさっさと部屋の中に入ってしまおう、そう思うのに、軋む胸が潰れそうになって動けない。握らなければ、と思うのに、ぐ、っと掌に食い込む爪の感触。それをどうにか剥がそうとしていると、

(え?)

見つめていたドアノブが不意に揺れて-----------

「おかえり」
「っ……何で……」

いるんだ、という言葉は潰れてしまった胸につかえて出てこなかった。その口にできた先頭の言葉だけで想像したのだろう、ハチはにっかしと笑って「階段昇ってくるのが聞こえたからさぁ。部屋の前で足音止まったし、兵助だろうなと思って」と答えた。

「いや、そういうことじゃなくて……や、やっぱり、いいや」

聞きたかったのは、どうしてこんなにも早く帰ってきたのか、ということだったのだが、ハチの笑顔を見ていたらそれを尋ねるのが何だか馬鹿らしくなって。一人で完結させてしまえば、「へ?」と当然訳が分からないハチは不思議そうに首を傾げた。
それから「何だよ、気になるじゃんか」と続けるハチに対して、俺は半開きになっていた扉の隙間から体をすり抜けさせて「別に大したことないから」と誤魔化そうとする。だが、彼から受け取ったノブを手に、背を向けて扉を閉めてもなお「大したことねぇなら、教えてくれたっていいじゃん」と食い下がってきて。完全に話をはぐらかすのは無理だろう、と俺は一つ溜息を零した。それから、

「や、随分、早かったんだなと思って」

この話は終わり、という意図を込めて、足首の付け根の辺りの革を踏みしめて革靴を脱ぎながら答える。俯き加減に、少し早口になりながら。そんな俺の思いを察したのかどうかは分からない。ただ、す、っと広がる開放感に浸る間もなく逃げるように部屋に戻ろうとする俺を追いかけてきた言葉に、俺は振り向いた。

「あ、飯、食う?」
「食べる」

実家からさ色々とせしめてきたんだよな、と笑うハチは、一度だけ会ったことのある彼の母親に似ていて----------酷く泣きたい気持ちになった。罪悪感、だろうか。

(ごめんなさい)

俺と違い、ハチの方は家族にきちんと俺のことを伝えている。目の前で直接的な反対をされた訳じゃない。けれど、理解してもらえたかどうか、そして赦されたのか、と尋ねられれば、首を縦にも横にも振れない現状だった。

「兵助? どうした?」
「……いや、何でもない」

心配げに俺の方を見遣るハチに、大丈夫、と首を振る。

(っ)

だが、気が付けば俺はハチの温もりにすっぽりと覆われていた。

「おかえり」

ただいま、と口にしたいのに、してしまえば嗚咽になってしまいそうで。俺は、きゅ、っと唇を噛みしめる。だが、瞼底からこみ上げてくる熱を堪えきる自信はなかった。
分厚いセーターなら、一粒の涙は気づかれないだろうか。そう思いながら、ハチのセーターに顔を埋める。ちくりちくりと俺を刺す柔らかな棘が、痛かった。

***

きゅ、っと蛇口が閉ざされる音に続いて水音が途切れた。途端、流しっぱなしにしてあったコンポから届くメロディが、少しだけ大きくなった。柔らかなギターの旋律が心地よい。体に詰まった疲れに、ソファの上で抱えたクッションごと身を沈ませていると、ハチが俺の元へとやってきた。マグカップを両の手に携えて。

「ん」
「ありがと」

淡い湯気が、嗚咽を無理矢理堪えたがために痛んでしまった喉を癒した。ひりひりとしていたそれが収まっていく。甘い匂いが滲ませる視界の底にとろりとしたした色合いのココアがあった。

「どうだった?」
「え?」

ソファが沈んだ。隣に座りざまに、そう問いかけてきたハチは「向こう」と、どう考えたって見えるはずもないのに、俺の故郷があるであろう方向へと、視線を流した。

「どうって……別に、特に変わりなくだな」

また話を蒸し返され、どう話題を変えようかと考えながらそう答える。わざと「正月にも会ったし」と両親のことを挙げてみたが、当然「あ、そうじゃなくってさ」と軽く手を振って否定された。

「親じゃなくって友達とか。すっげぇ変わったやつとか、誰こいつみたいなのいなかった?」

その問いに誤魔化すこともできなくはなかったけれど、俺は引き取ったマグカップに、嘘ではない、でも本当でもない、当たり障りのないことだけを零した。

「……どうだろう? 式だけしか出てないから。なんかバタバタして、あんまり話さなかったし」
「あ、兵助もか! 俺もだったんだよなっ!」
「え?」

意外な言葉に、ぱ、っと顔を上げてしまっていた。俺も、というのは、何に対しての『も』なのだろうか。式にしか出なかったことなのか、それとも、バタバタして話せなかったということなのだろうか。

(まぁ、恐らく後者だろうな)

俺と違って成人式を楽しみにしていたハチのことだ。同窓会に出なかった、というのは考えにくい。たくさんのやつに話しかけたり話しかけられたりして、じっくりと話せなかったということなんだろう。

(それにしては、早くに帰ってきたんだな……)

自分の実家の方がハチよりは遠いが、だが、式後にある同窓会に出てこんなに早くにも帰ってくるのは難しいだろう。そうなると、考えられる可能性は一つだけだ。今日が式だけだったら、俺よりも先に帰ってくるのが可能だ。そう思い、口にする。

「ハチのところって、昨日同窓会だったっけ?」
「や、今日なんだけどさ」

出ずに帰ってきちゃった、とハチはあっけらかんに笑って--------。

「っ何で」
「何でって……ちょっとあるものもらったらさ、兵助の顔、見たくなって」
「あるもの?」

おぅ、と頷いたハチは「待ってろ、今、見せるからさ」と腰を上げた。ぎ、っと重みに沈んでいたスプリングが跳ね上がる振動。マグカップを前にあるローテーブルに置くハチに倣って、俺もまた握りしめていたカップを解放した。

「っと、確かここに入れたはず」

床に放り投げられたままだった鞄を引き寄せた彼はしばらくその中をかき混ぜていたが、やがて「お!」と声を弾ませた。

「これこれ」

そう俺の元へと戻ってきた彼の手には、真っ白の封筒があった。

「何それ」
「ん、未来の自分への手紙。十歳の時に書いたんだけどさ、今日、そん時の担任が持ってきたんだよな。俺らの年がちょうど定年退職の歳だったらしくってさ、最後の生徒だ、ってよく言われたっけ。すげぇ厳しくて、でも、すげぇ温かい先生だったな」
「厳しくて温かい?」

相反するような言葉に疑問を漏らせば、あぁ、と彼は頷いた。

「いいことも悪いことも、必ず自分に返ってくるんだ、って。だから、最後に決めるのはいつも自分だよ、って」

十年の歳月を経て届いたものとは思えないほど綺麗な封筒に、彼の担任が大事に保管していたのだろうというのが伝わってくる。ハチがひっくり返せば、やたらと大きな文字で「20才の自分へ」と宛名が書かれていた。お世辞にも綺麗とは言えない文字は、ちょっと右上の方に上がっていっている。

(昔から変わらねぇんだな)

大学のノートだとか、ちょっとしたメモに綴られる右上がりのハチの字を思い出してこっそりと笑いを噛みしめていると「悪かったな、昔から字は汚ぇんだよ」と勘違いしてむくれるハチの姿があった。
そうじゃなくって、と自分が笑ってしまった理由を説明しようか口を開きかけたけれど、まぁ実際字の汚さも変わらないな、と思っただけに、否定するのもあれな気がして俺は笑みを残したまま話題を変えた。

「で、何て書いてあったんだ?」
「内緒」
「ふーん」

ここまで期待させておいて、という意味を込めて冷たい眼差しを送れば、焦ったように口早に事訳をしてきた。

「だって、絶対ぇ変なこと書いてあるし」
「変なこと?」
「ちょこっとだけ内容覚えてるんだけどさ、ほら、小学校の頃とかさってさ、二十歳ってすげぇ大人に思えたんだよ」
「あーそれは分かる気がする」

小さな頃、妙に抱いていた期待だ。二十歳になれば、大人になれば。------それが、少しずつ現実という象に結びつきだしたのは、いつ位だったのだろうか。

「だからさ、何かプロ野球選手になってるとかそんな前提で書いてた気がするんだけどさ、超豪邸とかに住んでるの。ジェット機とか持っててさ」
「さすがにそれは夢見すぎじゃないか?」
「悪かったな……」
「で、その手紙と俺が何の関係があるんだ?」
「あ、そうそう。でさ、その先生から宿題をもらったんだ」
「宿題?」

あぁ、と頷いたハチは一つ二つ咳払いを零した。まるで宣誓をするかのように、封筒を持った手を胸に当て、目を瞑った。それから、しばらくすると下ろしていた瞼を開け、ゆっくりと語りかけてきた。

「さて10年前の君たちに出した宿題を覚えているでしょうか?」

きっと彼の担任を無意識に真似ているのであろう、穏やかで優しい口調のハチに俺もまた引き込まれていく。

「そうです。二十歳の自分に手紙を書いたことです。懐かしいですね。どんなことが書いてあるか、覚えていますか? 覚えている人も、覚えていない人も、その手紙を読むまでに、もう少しだけ僕の授業につき合ってくださいね。さっき、君たちに僕は二十歳の手紙を書いたこと、と言いましたが、これは少し違います。正確に言えば、『二十歳の自分に手紙を書くこと。そして、その手紙をちゃんと受け取りに来ること』です。……こうやって、ここで君たちにちゃんと手紙を渡すことができたこと、嬉しく思います。生きていてくれて、ありがとう」

そこで一端、手紙から顔を上げたハチは、本当に優しい笑みを零した。

「素敵な、先生だな」
「あぁ」

そんな先生に受け持ってもらったハチに羨ましさを覚えていると、彼は便せんをめくった。どうやら、まだ続きがあるらしい。ハチはゆっくりと、一言一言を噛みしめるように続けた。

「今日、僕がここに来たのはほかでもない、さらに10年後の君たちに宿題を出すためです。この10年、君たちは誰かに守られてきました。いや、そんなことない、と反論する人もいるかもしれませんが、君がここで手紙を受け取っているのが、生きているということが、その証拠だと僕は思うのです。今度は、誰かを守って生きていってください。誰でもいい、恋人でも家族でも友人でも。誰か一人でも大事な人がいたなら、その人を守ってください。それが、君たちの道しるべになると思います。そんな道しるべを見つけてください。それが宿題です」
「道しるべ……」

俺の言葉に少しだけ顔を上げたハチは、けれども何も言わずに再び手紙を読み出した。

「10年後、君たちの宿題の回答を見るのが楽しみです。いや、10年後でも20年後でもいい……さすがに30年後はきついかもしれませんが、君たち一人ひとりの道しるべが見るかるまで、僕も長生きしなきゃいけないですね。そんな道しるべを見つけた君たちが、笑顔を携えてまた会いに来てくれるのを、楽しみにしています。それでは、その時まで」

手紙にまだ柔らかな眼差しを向けたままのハチは「10年後の宿題、か……」と呟いて。それから、俺の方に「まぁ、俺は絶対クリアだけどな」と優しい笑顔を向けた。

「え?」
「ほら、道しるべに兵助がいてくれるから」
「ハチ……」

俺は愛しさを、その温もりをそっと抱きしめた。迷うことがないわけじゃない。遠回りすることもあるかもしれない。すれ違ったり喧嘩をすることもあるだろう。けれど、ハチのこの笑みが、この温かさが、俺の道しるべになっていくのだろう。

「ただいま」
「おかえり」

この愛しさが光となって、俺たちの進む道を照らしてくれるのだろう、と。10年後も20年後も30年後も、ずっとずっと。







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