見えてるものは違っても、想いはきっと……

コール音が近く、遠く届く。波が行ったり来たりするみたいに。ぷっ、と一瞬、交信が途切れたような音がして。入り込んできた風の音に、一瞬、後悔する。止めておけばよかったって。

「……何だよ、こんな時間に」

耳元で、むすっ、とした声が響いて、その後悔は深くなった。だが、ここで切るわけにはいかない。向こうが出てしまったから。出なかったら、それこそ、ボタンを押し間違えただの何だの。いや、別に出てしまってもすぐにそう言い訳すればよかったのだ。---------なのに、僕の口は三郎の問いかけに素直に答えていた。

「三郎、ごめん」
「……雷蔵?」

外国からの中継みたくタイムラグがあるのは、三郎の寝起きの悪さのせいだろか、それとも、まだ電波が混戦しているせいだろうか。けど声の掠れ具合から、少なくとも彼が寝ていたことは明らかで、僕は謝罪の言葉を繰り返した。

「ごめん。起こして」
「そんなことは別にいいけど。……どうしたんだ?」

そう、三郎が言いたくなるのも、もっともだろう。だって、僕たちはついさっきまで電話していたのだから。本当は「あけましておめでとう」だけのつもりが、3時間も話し込んでしまって。さすがに押し寄せる眠気に耐えれずに電話を切ったのは、少し前のことだった。

「ん……三郎にね、朝日、見せたかった」

一つ、また一つ、星が眠りについていく。僕の声と共にもれた息が、青白さの残る空に溶け消えた。薄明かりに街が目覚めていく頃あいの空は夕暮れとは違う淋しさを覚える。まるで、このまま吸い込まれてしまいそうだ、と。

「朝日?」

まだどこか眠たげな声が僕の耳を撫でた。

「うん。初日の出」
「あぁ、そっか。今年は珍しく全国的に晴れるって言ってたからな」

ガラガラ、と、音がした。三郎が東向きの窓を開けたのだろう。遠くにあるはずの彼の部屋が、その先の景色が、まざまざと瞼裏に見える。机には、まだ卒業式の写真が飾ってあるのだろうか。僕と三郎が写っている。

「こっちは、まだ出てないな」

何気ないその言葉が、僕と三郎を隔てる距離の強大さを示していた。
ほんの数ヶ月前まで、当たり前のように一緒に過ごしてきた季節が本当は何一つ当たり前でないのだと思い知らされる。
ビルの谷間から吹く風の人工的な寒さにも慣れたし、雨が降るのが分からなくなった。人と歩いてぶつかっても謝らずに会釈で済ませるようになってきたし、最近、僕と三郎との世界が、少しずつずれていくことに気がついた。

(だって、今の僕には彼の机にあの日の写真が飾ってあるのか知る術さえない)

別に地球の反対側だとか、全く会えないような場所にいるわけじゃない。もちろん学生の身分からすれば、ひょい、と会いに行ける距離ではないけれど、でも、その分を埋めるための"きかい”はいっぱいある。
時間があればメールもラインもやってるし、共通の友人がいるツイッターを見れば一緒に盛り上がることもできるし、スカイプを使えばテレビ電話みたいに顔だって見れる。
父さんの頃と比べれば遠距離恋愛しやすくなったもんだぞ、って知ってか知らずか(まぁ知らないだろうけれど)、その言葉の通り、恵まれてはいるのだろう。昔と比べれば。
でも、今は今であって昔じゃない。
埋める機械があって、声を聞いたり顔を合わせたりする機会だってある。でも、携帯か何かのCMで聞いたような『会えなくても近くにいるような気がする』というフレーズは嘘だと思う。だって、近くにいるような気は、近くにいるような気でしかない。--------むしろ、遠く感じる。

(同じ国なのに、どうして同じ太陽を見れないのだろう……)

美しいこの朝日でさえ、僕と三郎が共にすることはできないのだ。



***

彼の方が先にあの町を出ていくのだと思っていた。あの日まで。僕も、三郎も。いつだって外に憧れていたのは三郎の方だし、あの町から自分がいなくなることなんて想像もしたことがなかった。
だから、心のどこかで覚悟はしていた。--------いつか、三郎がいなくなることは。
でも、自分がいなくなることの準備なんて、全くできてなかった。
それは、15歳の冬で。「まだ」なのか「もう」なのか、わからなかった。「もう」子どもでもなかったし、「まだ」大人でもなかった。ただ、永遠を信じた、15の冬。

***

まどろみの中で繰り返し繰り返し僕を揺さぶる振動。曖昧に溶けた意識の向こうで聞こえる電子音に覚えはあった。その震えに、すでに眠りから起こされつつあった僕は違和感を覚えた。
(休みだからアラームは止めたはずなのにな)
そうなると電話だろうか、と、閉ざしていた目をうっすらと開けてみれば、画面には、「三郎」の文字が浮かんでいた。薄明かりに見えた時計の針に、せっかくの休みなのに、と苛立ちを覚えて。

「…もしもし」

叩きつけるようにボタンを押して不機嫌さ全開で出たけれど、そんな僕のことなど構わない明るい声が跳ね返ってきた。

「なぁ、雷蔵、雪で遊ばないか?」
「はぁ?」

思わず、呆れた声を出してしまう。この町によく雪が降る。飽きるほどまではいかないが、嫌になるほどには。しかも、山間に囲まれ、陽が入りにくいせいもあるのだろう一旦降ってしまえば、春まで溶けないものもある。長い長い冬がこの土地を覆い尽くしているのだ。

(まぁ、それでも、まだ初雪ならば僅かばかりの感動を覚えるかもしれないけど……)

確かに、昨日のよるから、けど、カレンダーがもうすぐ二枚目が破られようとしているような時期だ。今更、すぎる。何でこんな朝早くからそんな寒い目に遭わなければならないのだろうか、と誘いを断ろうと息を継いだ瞬間、

「今さ、雷蔵の家の前なんだ」

その声が、どこか震えているような、そんな気がした。

***


「手、冷たいな」
「三郎が急かすから」

ぐいぐい、引っ張っていく彼の手の力強さに、僕は手袋をする暇もなかった。つきり、と突き刺すような冷たい風に、空いた方の指を擦りあわす。それでも、空気に触れている部分はじん、と痺れていく。

「ん」
「え?」

押し付けられたのは、彼の温もりがこもった手袋が一つ。マフラーでくぐもった声が照れていたように感じたのは気のせいじゃい。なんだかこっちまで照れてしまって、ありがとう、の代わりに三郎の手を、ぎゅ、っと握りしめた。

「………ねぇ、三郎。どこ行くの?」

まだ朝が早いせいか歩道には足跡は少なかったけど、車道には轍が幾重にも残されていた。車が通り抜けるたびに、タイヤに撒き散らされ、排気ガスに揉まれる雪。黒ずんでしまった雪を見ると、なんだか悲しくなる。--------ずっと、真っ白のままでいられないんだ、って。

「んー? 学校」
「えー学校かぁ」
「何だよ、その『学校かぁ』って嫌そうな言い方」
「だって、せっかくの休みの日なのに」

もちろん学校が嫌いな訳じゃない。仲のいい友人もたくさんいて、すごく楽しいから。けど、朝早くからわざわざこうやって三郎が来てくれたのだから、もっと違う場所なんだろうなって勝手に期待を膨らませていた分、なんだか拍子抜けしてしまったのだ。そんな僕を三郎は「いいから」と、ただ僕の手を引っ張っていって----------

言葉にならなかった。全てが、雪に眠っていた。真っ白の、光に。

絶対ここなら荒らされてないと思ったんだよな、なんて振り向いた彼は笑顔で。ちょうど昇ってきた朝日に雪が反射して。キラキラ、と世界が輝いていた。その輝きが彼の笑顔を照らす。

「どう?」
「すごいね……ちょっとわくわくする」
「だろ」

さくさくさく。音を踏みしめながら、僕たちは仲へと入っていく。振り返れば、二つのライン。じゃれるてるように、並んだ足跡。それが、僕たちの足元まで繋がっている。

「深いね。しばらく積もったままだからかな?」
「かもな。日陰のは春までもつかもな」

春。その言葉に、僕は胸に棘のような冷たさを押し込まれた。

(……ねぇ、三郎。その雪が融ける前に、僕はいなくなるんだ)

凍りついて閉ざされたその言葉。いずれは分かることなのだから自分から話さないと、と思っていた。ずっと。父さんから転校の話が出たその日から。
けれど、ずっと言い出せなかった。当たり前のように「高校生になったらさぁ」と未来を語る三郎を前にして。言わなければ、と思えば思うほど、深い場所に押し込められて。
そうして、ただただ卒業を数えるカウントダウンの数字だけが減っていって。ずるずると内緒にしたまま、ここまで来てしまった。もう二週間もすれば、僕はこの町を出ることになっていた。

(いっそのこと、何も言わずに消えてしまおうか)

雪が溶けてしまうように。

「っ」

顔面に飛んできた衝撃。思わず目を瞑ったけれど、ひやりとしたそれにその正体が雪くれだと分かった。三郎が投げてきたのだろう。それが僕の顔面に当たったのだと、「お、命中した」とケタケタ笑う三郎から理解したと同時に、怒りがこみ上げてくる。

「当たったじゃないだろ、何するのさ」
「だって、雷蔵ががぼーっとしてるからさぁ」

あまりの言いようには思いっきり、手を雪の中に差し込んだ。勢いよく掻き上げれば、ちょ、と僕を留めようと掌を向けかけた三郎は防ぎきることもできず、顔面から雪を被った。

「雷蔵っ」
「三郎だって、ぼーっとしてるじゃないか」
「何だとっ」

それは、倍になって返ってきて。だから、僕も倍にして、どんどん投げ返す。そうやっているうちに、雪合戦になってしまってしまっていた。まるで子どもみたいに、ただひたすらに雪を投げつけあう。

「あー、あっちぃ」
「疲れたね」
「なぁ、ちょっと休戦しないか?」
「賛成〜」

その場にバタリと倒れこんだ三郎を真似て。僕も背面からダイブした。思ったよりも柔らかかった雪面に、そのまま引きずり込まれてしまいそうな、そんな感覚に陥る。

(このまま雪に埋もれて、春になって。そしてそのまま溶けて……)

けど、どれだけ希っても叶わない望みだと僕は知っている。

「冷たいな」
「うん。でも、ちょうど気持ちいい」
「そっか……」
「あ、また降ってきたな」

ふ、と僕の手に温もりが重なった。色も音も、なにも、ない。何もない世界が、僕たちを閉じ込めていた。----------------ただ、三郎の手の温もりが僕の全てだった。

「ねぇ、三郎」
「ん? 何?」
「ううん。何でもない」
「ふーん?」

僕たちは、子どもじゃない。この雪みたいに、まっさらな子どもじゃ。だって、永遠はどこにもないことを、知ってる。でも、大人でもない。だって、三郎の手を握ってると、永遠を、信じたくなる。

「うー冷たい。帰るぞ、雷蔵」
「うん」

三郎に手を引っ張ってもらって体を起こして、気がついた。

「あ、」
「どうかした?」
「……ううん、何でもない」

いつの間にか雪が積もりだしていた。二人の痕跡が、埋没されていく。真っ白に隠され、永遠に存在を消されていく。まるで、最初から何も存在しなかったかのように。
きっと、僕たちもそうだ。
きっと、三郎と一緒に過ごした日々も、今日のことも、思い出になってしまうのだろう。この胸の痛みも切なさも無力さも、子どもであったことさえも忘れてしまって。15の冬、を何事もなかったかのように、懐かしむ日がくるのだろう。

------------だって、永遠は、どこにもない。

僕たちは、子どもじゃない。この雪みたいに、まっさらな子どもじゃ。だって、周りを見ずに無邪気に「好き」なんて言えないから。でも、大人でもない。車や人に踏まれ、黒ずんでしまった雪でもない。だって自分が傷つくのが怖くて怖くてたまらないから。

「転校するって、本当か?」

ひやり、と氷の礫が胸を切りつけた。その言葉に、僕は目を伏せることしかできなかった。白に白が浸食していく。春も近いはずなのに、。
隠していたわけじゃない、というのは言い訳だろうか。

「いつ?」
「……卒業式の日」

掠れた声だけが妙に響いた。その言葉を吐き出すだけでも抉られるような痛みを覚えている自分に言い聞かせる。自分が傷ついてどうするのだ、と。他の人からこの話を聞かされた三郎の方が、ずっと痛いはずなのだから、と。

「何で?」

どんだけ、泣いても喚いても叫んでも、ダメだった。父親の東京行きをなしにすることも。僕一人が残ることも。まだ子どもだから、親と一緒にいなきゃいけない、って。

「……お父さんがね、今、造ってる橋ができたら、」

僕はその言葉を最後まで言えなかった。じ、っと三郎が僕に視線を注いでいたから。途絶えた言葉の先が分かったのだろう「そうじゃなくて」と置かれた三郎の声は、抑揚がなかった。

「何で言ってくれなかったんだ?」

鋭い彼の視線が、僕を射抜いていた。

「私達の関係は、そんな簡単に壊れるものだと?」

首を振った。必死で。横に。傷つくのが怖かった自分の醜さが、突き刺さる。三郎を傷つけてしまった、その事実が痛かった。三郎は

「壊しちまおうか」
「何が?」
「橋、爆破してくりゃいいじゃん」

何、冗談言ってるのさ、なんて笑い飛ばせれなかった。バカ、って言葉は喉につっかえた。何も、言えなかった。-----------------彼が泣いていたから。

「三郎……」

こんなにも、この世には言葉が溢れているのに。こんなにも、想いは溢れてくるのに。何一つ言葉にならなくて。言葉の代わりに、ぎゅ、と抱きしめる。世界が、咽いていた。胸が、震えた。------------三郎となら、永遠を、信じたくなる。

「雷蔵、帰ろう」
「うん……」

さくり、さくり、足跡を残す。きっと、明日の朝になったら、消えている。それでも、見えない何かに抗うかのように、刻み付ける。------------二人でいた、という痕跡を、永遠に。
それは、15歳の冬で。「まだ」なのか「もう」なのか、わからなかった。「もう」子どもでもなかったし、「まだ」大人でもなかった。永遠はどこにもない、って、知っていた15の冬。けど、永遠を信じた15の冬。

***

勇気が、ほしい。靱くなりたい。三郎を傷つけないために靱くなろう、そう決めたはずだった。----------けど、僕はあの日から何も変わってない。永遠を信じたはずの、あの日から。
『さよなら』を言う勇気もなければ、『愛してる』と言う靱さもなくて。
三郎よりも先に、自分で壊してしまうことも壊れないよう、自分から努力することも、何も、していない。結局、三郎を傷つけるのじゃなくて、僕が傷つくのが怖いんだ。

「……雷蔵? どうした?」

ふ、と飛び込んできた三郎の怪訝そうな声に、僕は今に引きずり戻された。あれから季節はまだ一巡していない。離ればなれになって、まだ一度目の冬なのだ。

(あと最低2年……)

大学に入るときにはもう少し自由が利くだろうから、3年離ればなれになるだけだ、と三郎は言っていたけれど、三郎と離れて時の流れは、馬鹿みたいに速く、けれども、恐ろしく遅かった。変わらなければ、と思う反面、三郎が変わってしまうかもしれないことが怖かった。

「雷蔵? 大丈夫か?」

電話というのは、どうしてこんなにも生々しさを増幅させるのだろう。
沈黙を訝しがる彼の声が耳元でさざめいて、反響する。息遣いまで心配しているのが伝わってくる。

「泣いてる?」

三郎の声が、三郎の優しさが、私の心の奥で凍りついていたものを溶かしていく。それが、滴となって僕の中からこぼれ落ちていった。ひとつ、またひとつ。

「……ううん」

声が、掠れた。震えを、騙し騙しして。僕は携帯電話を握りしめながらどうにかそう答えた。三郎に心配かけちゃダメだ、と。泣いちゃいけない、と。-------僕に泣く資格はないのだから。

「泣いてなんかないよ」

精一杯奮った声は、でも、やっぱり涙に濡れた。

「嘘、言うなよ」
「嘘じゃないから」
「嘘だ」

しん、としていた黎明な空が、慟哭を刻んでいた。

「……私も、今、泣いてるからな」

遠く遠く、離れた三郎の温もりが、僕の中に飛び込んできた。

「泣いてる」
「うん」
「泣いてる」
「うん」
「泣いてる」
「うん………僕も」

僕たちは、ただただ泣いた。それしかしらない子どもみたいに、泣いた。

「雷蔵」

ぽつり、と涙の代わりに、三郎の言葉がこぼれ落ちてきた。

「ありがとう」
「えっ?」
「こっちも、丁度、今、日が昇ってきた。すごく綺麗だな」

僕は、窓の向こうにある太陽を見やった。

「うん。すごく綺麗だね」

燃えるような赤は、全てを包み込む柔らかな黄金になっていた。僕たちは、何もかもが幼すぎて、自分のことで精一杯で。埋まらない距離に僕たちは不安を感じるのだろう。そして、それは相手に伝わるのだろう。どれほど、強がっても。

「三郎、」
「何?」
「好きだよ」

同じ太陽を見れなくて、お互い、傷つけたり、傷ついたりして、喧嘩をしたり、もっと離ればなれになったりして。時にはこうやって永遠を信じれなくなることもたくさんあるだろう。それでも、僕は生きていきたい。この世界を-------------------三郎と二人で。




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