骨を銜える人
「骨を銜えると安心するんだ」 そう言った彼の表情を、僕は覚えていない。笑っていたのか、泣いていたのか。 まるで、そこだけ記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。 ただ、浅黒く焼けた彼の掌に載せられた骨の白さだけは、くっきりと残っている。 「どこの骨なんですか?」 僕から最初に出た言葉は、非難でも恐怖でもない、純粋な疑問だった。 拒むようにきつく巻かれた包帯の、その僅かな隙間から見える目が苦笑に揺れていた。 今思えば、彼の望むものとは違った、完全に的の外れた問いかけだっただろう。 気付かなかった。 (彼は希っていたのに、赦されることを) *** 「すみません、団子を一皿」 「お客さん、このあたりの人間じゃないねぇ」 「分かります?」 「なんたって、言葉が違うからね。どこから来たのかい?」 僕が国の名前を告げると店主は大そう驚いたようで、口をあんぐりと開けて僕を見た。 「何でまた、こんな所まで」 「人に会いに来たんです」 「恋人かい」 からかうような口調で店主が訊ねてきた。 口の中で“恋人”という文字を転がしてみる。 それは酷く甘く幻覚を見たときのように放し難い響きがあった。 「……いえ」 そこから無理矢理意識を剥がして否定の言葉を紡ぐ。 それから“恋人”という言葉の代わりとなるものを探してみるけれど。 けれど、僕と彼の繋がりがどんな言葉で表すことができないないことは、僕自身が一番解っていた。 乱太郎が書いてくれた似顔絵は、随分と日に焼けて紙も墨の色も褪せてしまっていた。 大事にと丁寧に懐に収めていたつもりでも、いつの間にかボロボロになっていて。 流れてしまった年月は、赦しを乞うのに十分なように思えてくる。 (ねぇ、留さん。この旅で見つからなかったら、諦めてもいいかなぁ) 見つかってほしい。 見つからないでほしい。 相反する願いを胸に、懐から紙を取り出して訊ねる。 「この人なんですけど、知りませんか?」 店主は、あっさりと「あぁ、この人だったら」と頷いた。 *** 「頭だったか」 「頭頂骨ですか、それとも側頭骨?」 「いや、足だったかな?」 「大腿骨? それとも、脛骨? あ、膝蓋骨なんてのもありますよ」 「残念ながら忘れてしまったよ」 雑渡さんの燃え立つように透き通った眼差しが、それは嘘だと叫んでいるのが分かった。 けれど、きっとそれは僕が言うべきことじゃないのだろう、ということも解っていた。 だから次に沸き立った純粋な願いを口にする。 「触ってもいいですか?」 「触るとどこの骨か分かるのかい?」 「いいえ。……でも、触ってみたくて。駄目ですか?」 「いや、いいけれど」 ゆっくりと僕の掌に収まった骨は、雑渡さんの熱がわずかに籠っていた。 火山の痕跡にある軽石のように、ぶつりぶつり、と痘痕のような穴が開いて。 少し力を加えただけで鈍く軋んだそれは、思っていたよりもずっとずっと繊細なものだった。 「骨って、随分軽いんですね」 「知らなかったかい?」 さっきよりも高くなった声音は、どことなく面白がっているようだった。 合戦場で敵味方関係なく手当てをしている僕なら知ってるはずだ、というように。 けれども、雑渡さんの思案は、残念なことに近いようで随分遠い。 それが、僕と雑渡さんの距離なのだろう。 「えぇ。骨折だのなんだの、ってことがあるから、 骨格標本のこーちゃんで勉強することはありますよ。 けど、保健委員は骨になった人の面倒をみることはありませんから」 「あぁ、そうか」 春の日なたのような柔らかな彼の視線が、僕の掌から腕、首筋、唇、鼻と移動してきて、 「君は死んだ人には興味がないんだね」 そして僕の目で止まった。 「……興味がないから、だから、誰のかって聞かないのかい?」 「雑渡さんは、聞いてほしいんですか?」 「いや、別に」 すい、と逸らした目線に、雑渡さんがそれを望んでいることは分かったけれど、僕はそれほど優しい子どもではなかった。彼が僕に求める理想と僕が僕の中で創りあげていくものは乖離していたし、それを演じれるほど賢い大人でもなかった。だから、ありがとうございました、と骨を掌ごと差し出す。 剥き出しになった彼の目は厳しい色を湛えていたけれど、それは一瞬の内に散り散りになって消えた。 慈しむように、雑渡さんはそっと指先だけで骨を取ると、急に掌が軽くなったような気がした。 さっきまで重さを感じてなかったはずなのに、と自分の感覚がいかに曖昧かを思い知って、心の中で小さく嘲笑う。 「さっき、銜えるって言ったけど、どうやって?」 「そのまんまだよ。こうやって、ね」 食らいつくように大きく開けた雑渡さんの口の向こうには、ぽっかりと、暗闇が潜んでいた。 雑渡さんは銜える、と言っていたけれど、喉を仰け反らせれば、そのまま呑み込んでしまいそうなほど深く深く差し込んで。縄を切り裂くために鋭く尖らされた犬歯のその奥に隠れていた、草食動物のように磨り潰された奥歯で骨をしっかりと噛みしめた。 「そうすると、安心するんですか?」 「あぁ、生きてるってね」 「雑渡さんも、そんなこと考えるんですね」 「失望したかい?」 酷く冥い目に「もともと期待したこと、ありませんよ」と冗談を投げかける。 闇に絡め取られたまま、それでも、「手厳しいね」と彼は薄く笑った。 それから、骨を銜えたまま、雑渡さんは僕へと手を伸ばしてきた。 哀しいほど冷たい指が、僕の頬をひっそりと撫でた。 冷たさを受け入れようと、その指先に僕の掌を重ねる。 「それで、誰のですか?」 「……私が初めて殺めた人だよ。酷く綺麗な人だった」 さっき骨が触れた部分が、ちりり、と痛んだ。 その夜、彼は僕の大切な人を傷つけて---------そして、姿を消した。 *** 「……久しぶりだね」 突然、訪ねてきた僕を見た雑渡さんに、表情の端っこに驚きの色が浮かび上がったのが分かった。 けれど、それはほんの一瞬のことで、すぐにあの頃と変わらない飄々とした笑みへと取って代わった。 玄関でいいと言った僕に「遠い所から来てくれたのだから」と雑渡さんは中に入ることを勧めてきた。 押し問答の末、折衷案として縁側を選んだ僕に、雑渡さんがお茶を運んできた。 湯呑から立ち上る湯気からは茶葉以外の匂いが感じれないのを確かめ、口を付ける。 少し温めのそれに、思わず和んでいる自分がいることに気づく。 (このまま、こうしていれればいいのに) 「えぇ」 「それにしても、よくここが分かったね」 「これでもプロの忍ですから」 そうだったね、と僕の方を笑いながら見る雑渡さんを僕は観た。 あの頃寸分の隙もなくきっちりと巻かれていた包帯はゆるゆると、今にも解けてしまいそうで。 その下からあの頃よりも更に日に焼けた肌と苦労で刻まれた皺がのぞいていた。 指先をそっと忍び見ると、からからに乾いた土がこびりついている。 (もう、忍を辞めてしまったんだな) 噂が真実と違えないことは、何よりもその纏っていた土の匂いの濃さが示していた。 「なんで笑うんですか?」 「いや、どうしても、保健委員長の印象が強くてね」 「でも、こうやって、あなたを見つけた」 僕が鋭く切り込んでも、まるで柳のようにしなやかに受け流される。 「あぁ、そうだな。君も立派なプロの忍者になった、ってことか」 時の流れは速いねぇ、とまるで歌を歌うように雑渡さんが伸びやかな声で言った。 それに応じるように枝で羽を休めていた小鳥たちが勝手に囀り出す。 長閑な音色は、涙が出そうなほど幸福な景色で。 「骨、」 「え」 「まだ持ってるんですか、あの骨」 黙ったまま、雑渡さんの右手が左の懐に差し込まれたのを見て、そこから武具が飛び出してくるのではないか、と思わず身構えた。その緊張が伝わったようで彼は困ったように軽く目を瞬かせながらも、「はい」と取りだした骨を僕の掌に載せる。 それから、「棄てるに棄てれなくてね」と心にも思ってない言葉を簡単に紡いだ。 「伊作くんは、こんな所まで何をしにきたんだい。 まさか、こんな所にきてまで、骨の話をしに来たわけじゃないだろう?」 「あなたを連れ戻しに」 雑渡さんは可逆的な微笑みで「本当は?」と問い返してきた。 諦観しているような穏やかな笑みは、僕の胸内を見透かしているようだった。 そして、その微笑みは僕が一度も見たことのないものだった。 記憶に棲み続けていた彼はいつだって緩く笑っていたけれど、 けれど、その奥に潜む深淵よりもまだ冥いものに、僕はずっと絡め取られてきた。 「ここは美しいところですね。いつか、あなたが言ったように」 僕は雑渡さんの問に答えず、縁側の先に広がる鮮やかな世界を眺める。 (本当に、浄土のようだ) 「よく、私のふるさとが分かったね」 「菜の花が一面に咲く、といつか言っていたでしょう」 「そういえば、いつかの春先に、そんなこともあったね」 「思ったより時間がかかったけれど、ようやく見つけた」 いちめんの菜の花が、春の風に揺れていた。 「あなたを、殺しにきました」 硬く骨ばった大きな手に手首を掴まれた、と思ったのも束の間、そのまま抱き寄せられた。 その勢いに僕の手から骨が零れ落ちるのも構わず、雑渡さんは呟いた。 「知ってるよ」と。 乾いた音を立てて地に転がった骨が僕たちを見上げていた。 「だったら、どうして、」 どうして、そう思ったらもう駄目だった。迸る言葉が涙で濡れる。 「どうして逃げなかったんです? あなたなら、簡単でしょう。 あなたほどの、一流の忍者ならば姿をくらますことなんて。 ずっと遠いところで、全然関係ない土地で忍として生きることなんて。 僕と二度と交わることのない所で生きていくことなんて。 僕を欺くなんて、簡単なはずなのに……どうして、ふるさとなんかに戻ったんですか」 雑渡さんの指先があの日と同じように僕の頬を撫でる。 血が通ってるのが嘘のように冷たい指が。 けれど、もう、僕はあの日と同じように彼の指先に重ねる掌を失っていた。 僕の掌は縋りつくように着物の襟を握りしめ、そして、その先にある胸を叩き続ける。 「……どうしてだろうなぁ、里心がついてしまったのかもしれないね」 「やっぱり、あなたは嘘吐きだ」 「そうだね」 「あなたはずるい」 「そうだね」 「あなたは酷い人だ」 「伊作くんは優しいよ」 思わず見上げた先にあった、甘やかな水色の空に透けた月は死人のように白かった。 「私を殺して、そうして、伊作くんが私の骨を銜えてくれるなら、それでいいんだ」 |