帰ろう。






「…っ、金吾っ!」

は、っと顔を上げると、眉間に皺を寄せて怪訝そうな表情の父が自分を見つめていた。
それまで、のぼせたような赤ら顔をしていた父は、幾分、不機嫌そうにみえる。
辺りの浮かれた酒宴の雰囲気から、自分たちだけが切り離されたようだった。



「え」
「さっきから何をぼんやりしておる。何度も呼んでいるのに」
「あ、…すみません」
「まぁ、まぁ。幼名から新しい名に変わられて、まだ日が浅いから慣れてないのでしょう」

傍に控えていた父の家来がそうとりなすと、刻まれていた皺が僅かに浅くなった。
家臣に諫められた姿を息子に見られたのが気まずかったのだろう。
居心地悪そうに、一つ空咳をして、杯に手酌する。



「まぁ、そのうち慣れていくだろうが。
 ところで、お前は、いつ、こっちに帰ってくるつもりだ?
 学園生活は、あと二年残っているようだが、もう、いいんじゃないか?」

酒を呷りながら呟いた父の言葉を、そこに感じた違和を、耳が絡め取った。


(帰る?)



「見た所、随分とたくましく成長したな。泣き虫も治ったようだし」
「本当に若は立派になって」
「これなら家督を譲っても安心だな」
「そんなこと言って。まだまだ、お若いじゃないですか」
「いやいや、早く嫁を貰って、孫の面倒でもして楽隠居をしたいさ」

酒を酌み交わしながら、“俺がここに帰ってきたら”の話をし出した父は、この上なく上機嫌で。
おべっかを言われていると分かっていても、頬が上気し、ますます顔が赤くなっていく。
盛り上がる父達が、まるで、別の世界のできごとのように、遠い。



「父上っ。俺は、」

そこまで言って、続ける言葉がないことに気がついた。
胸の中で足掻いている様々な感情はあるのに、何一つ、言葉にならない。
喉をせり上がってくるものが嗚咽に変わりそうになり、ぐ、っと掌に爪を立てる。

(俺は何だ? 何を言うつもりだ?)



「どうした?」
「…いえ」
「まぁ、今すぐに退学しろ、とは、学期途中だから言わないが、早い方がいい。
 学園に戻ったら、一度、土井先生と相談してみろ。こちらからも手紙を書いておく」

笑みを向けられて、俺はそれを避けるように、手元に酒瓶を手繰り寄せた。
右手でそれを傾けると、どぼどぼ、と零れんばかりの勢いで杯を満たしていく。
俺のための祝宴だ、というのに、周りのような浮かれた気分になることはできなかった。



「まぁ、めでたい席だ。その話は、明日にでもするとしよう」

父はそう言うと、また、杯を力強く握った。


この日のために、今までずっと、修行をしてきたはずだった。
晴れの日も雨の日も、朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も。
家を継ぐために、強くなりたい、と。

---------------なのに、どうして、今、喜三太に逢いたい、と思うんだ?



かさり、と乾いた唇は言葉を紡ぐことはできず、ただ、傍にある杯を空けて潤すことしかできなかった。












朝靄が立ち込める時分に家の門をくぐり抜けたのは、酒宴の翌日だった。
自分でも、こんな風にとんぼ帰りをするつもりはなかったけれど。
父とあの話の続きをする気にはなれなかった。



ただひたすらに忍術学園を目指し、日が出ている間は歩き続けた。
どれくらいの夜を越えたのかは分からないけれど、少しずつ東言葉が減っていって。
学園の近くの耳慣れた言葉が入ってくるようになって、ほっ、と心が落ち着くのを感じていた。



「おばちゃん、団子を一皿」
「はいよ」

街道沿いの茶店は、それなりに繁盛しているようで。
旅装をした人々が情報交換とでもいうように話に花を咲かせている。
被っていた傘を長椅子に置き、注文を済ますと、できるだけ密やかに耳をそばだてることにした。



「これから東に行くんだけどよ、なんか山道が崩れたって話だぜ」
「あーこないだの大雨でか? けど、南沿いにも道がなかったか?」
「そうだっけか?」
「なぁ、兄ちゃん、兄ちゃんは東から来たんだよな」

隣に腰を下ろした二人組の男が話しかけてきた。
素早く、相手に気づかれない程度に、その身なりに視線を配らせる。
浅黒く焼けた肌に、埃や土で擦れた色合いの衣服は年季の入った感じがして。

(同業者、というわけではなさそうだな)



「はい」
「この先の道って通れたかい?」
「いえ。少し南に入った所から来ました。雨で山道が通れなかったので」

すると、背の高い方は、「間に合うかな」と、思案気な顔をしていて。
もう一人のやや丸顔をした男は、隣の男の心配も露知らず、のんびりと饅頭をほおばっている。
右手にも左手にも饅頭をがしっと掴み、もふり、もふり、と動き続ける口は、同級生を思い出させる。

(みんな、元気にやってるだろうか)

しばらく会ってないだけなのに、なぜか、随分と遠い日々の出来事のように感じる。



「若いのに一人旅かい?」
「えぇ、そんなところです」
「これから西に行くのかい?」
「いえ、帰るんです」

行く、という言葉に、思わずそう答えていた。
帰る、ともう一度、口の中で、そっと、呟いてみる。
なんだか、こそばゆいような、面映ゆいような、それでいて温かい気持ちが広がる。

---------------あぁ、そうだ、帰るんだ。

ようやく、父の言葉に覚えた違和の正体が分かった。



「帰るったって、今、東の方から来たんじゃないのかい?」
「元々の生まれは相模の国なんで、里帰りをしてたんです」
「そりゃ、随分と遠いな。なんで、また里帰りなんぞ」
「元服の祝いをしてもらって」
「そりゃ、めでたいわねぇ。家の方も喜びひとしおね」

いつの間にか、俺達の傍に店の女主人が立っていて、会話に割り込んできた。
「お祝に、もう一串、おまけしてあげる」と置きかけた皿を翻し、店の奥へと戻っていった。
ぽつん、と残された湯呑はを持ち上げ、そこに入れられた、底の見えぬ池のような深い緑色の茶を眺める。



「めでたい、か」

ふと、父親のことを思う。
髪に懐刀を入れた時の感極まって、目を潤ませた顔。
皆に俺のことを、新たな名と共に紹介した時の、誇らしげな顔。

(手紙の一つでも、残してこればよかったな)

ゆらり、と小さく波立った水面に映る俺は、酷く頼りなさそうな顔をしていた。



味も噛みしめず、もくもくと食べていたせいか、たん、と積まれていた団子は、気がつけばなくなっていた。
さっきまで頭上を飛び交っていた騒々しい会話も、ぷつり、と途切れていて。
いつの間にか、隣にいた二人組もいなくなっている。



「おばちゃん、勘定」
「はいはい」
「ごちそうさまでした」
「道中、気を付けてな」

懐から小銭を取り出し支払うと、長椅子に置いておいた傘をかぶり直す。
女主人は店から道の端まで見送りに出てきてくれて。
「いってらっしゃい」と告げられた。

---------------それが、喜三太に告げた「いってきます」と重なって。



(帰ろう。それで、家に手紙を書こう)












少しでも早く、と疲れを訴える足や背中を励ましつつ歩き続けて。
気がつけば見覚えのある白塗りの土塀に、ようやく学園に到着したことを知る。
と、どっしりと構えられている門扉の向こうから、喜三太が走ってくるのが見えた。



「金吾っ!」

聞き慣れた呼び名で、俺を呼んで。
いつもの、その柔らかで温かな笑顔を向けて。
何一つ変わってないことに、ほっ、と心が緩んでいく。

-------------あぁ、帰ってきたんだ。



「喜三太」
「おかえり」
「ただいま」










(喜三太の「おかえり」が俺の胸を温かくさせた)








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