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「土井先生」 とっくに気配でばれてるのだろう、「やぁ利吉くん」と振り向いた先生はふわりと人の良さそうな笑みを浮かべた。その朗らかな笑顔に、自然と部屋の中に吸い寄せられていた。土井先生まで、あと四歩。もう一歩踏み込もうとしたら、きゅ、と軸足の下にある床が鳴って、それ以上、近づけなくなる。そのまま、その場にあぐらをかいて座り込むと、顔だけ向けていた先生は体ごと私の方を見てくれた。今日は、ゆっくりと話すことができるのだろうか。 「今日は、山田先生は出張だよ」 「そうですか……」 先生と同室の父の気配の代わりに、墨の匂いが漂っていた。晴れた昼間だというのに辺りは妙に静かで居心地の悪さを感じる。先生の顔を見づらい。けど、先生はそんなこと気にしていないみたいで、以前と同じような笑みを私に向けた。あまりに変わっていなくて、安堵と淋しさが入り交じる。 (一人で緊張して、馬鹿みたいだ) 「どうしたんだい? 急ぎの用?」 「いえ。ただ、長期の仕事が入ったので、しばらく家に戻れないものですから」 「あぁ、じゃぁ、母上の元に休みに帰るように伝えておくよ」 「よろしくお願いします」 一通りの会話が終わって、沈黙が立て付けられた。気まずさに何か言わなければ、と思うけど、そう思えば思うほど、色々と浮かんでは、どれもがふさわしくないような気がして、言葉が胸の中で絡まっていく。溜まっていく言葉の重みに、自然と頭が垂れていった。まともに先生の顔が見れない。 (あんなこと言わなきゃよかったのだろうか) *** 「先生が好きです」 その言葉を告げたのは、前に訪ねた時のことだった。 まだ、うっすらと斑雪が残る、春の浅い日だった。言われた言葉の意味が取れなかったのか、きょとん、と私を見つめる先生の唇から白い息がたなびく。しん、と冷え切った静寂で聞こえてくるのは互いの呼吸だけだった。「利吉くん」と呼ぶ声が戸惑っていて、私が望む答えが返ってこないことは分かっていた。このまま「冗談ですよ」と流してしまえばよかった。けど、この想いをなかったことなんかに、できなかった。 「あなたのことが、好きなんです」 先生の言葉は、行動は、温もりは、ひとつ、ひとつ、私に刻み込まれている。好きだ、と気づく前のも、気づいた後のも。全部、全部。ひとつ、ひとつ、降り積もって重なってきた。だから、先生との思い出と、先生への想いが、今の私をつくっている。だから、なかったことになんか、できなかった。 けど、いや、だから先生の顔を見ることができず、私は俯いたまま先生が答えを出すのを待った。 *** 空気が揺れたような気がして顔を上げた。ぼんやりと私の方を見ている先生に気づいて、視線を重ねる。それでも気付かないから、「どうしたんです?」と問いかけた。ぱっと、弾けるように私を先生は見た。思惑に捕らわれていたのを照れるように、頭をかきながら先生は笑った。 「いや、私が利吉くんぐらいの時って何を考えていたかな、と思って」 「何を考えていたんです?」 「さぁ、忘れてしまったよ」 私に答えてくれているのに、先生はどこか遠い目をしていた。忘れてしまったなんて、嘘だ。夏の落下していく太陽が先生に陰翳を深く刻む。干からびたように硬そうな皮膚には無数の傷痕があった。私の知らない、先生の過去。思い出に絡め取られた先生を引き戻そうと、「土井先生の初恋って、いくつの時なんです?」と茶化すようにして訊ねた。それから、後悔した。 「は、初恋? そんなの聞いてどうするんだい」 慌てるように声が揺れる先生を見て、ひどく胸が痛んだ。私の知らない先生がいることなんて当たり前なのに、分かり切っていたはずなのに。自分でその話題をほじくり返したくせに、耳を防ぎたくなる。息をするのが苦しい。なのに口は勝手に滑っていく。 「どうするってことはないですけど、知りたいので」 「あのなぁ、興味本位できくことじゃないよ」 「興味本位なんかじゃありません。好きな人のことを知りたいと思うのは当然です」 自然とこぼれた告白に、先生の瞳が揺れた。 「……利吉くん、それは、勘違いしてるんだよ」 「してません」 「カッコウとか託卵の雛と同じだよ。最初に見たものを親として慕うのと同じさ。 なんとなく、そう思っちゃってるだけだよ。そう、擦り込みと同じだよ。これは恋じゃない」 「違います。そりゃ、土井先生から見たら、私は子どもかもしれません。 けど、恋じゃないなんて決めつけないでください。ちゃんと好きなんです、あなたのことが」 叫びに近い私の言葉を、「利吉くん」と強い響きが遮った。 「……前にも言ったけど」 「そんな風に考えたことがない、ですか?」 「あぁ」 きゅっと、引き締められた眉、それ以上の言葉を拒む眼。けれど、あの時とは違って、今度は先生から視線を逸らさなかった。逸らしたく、なかった。 「じゃぁ、考えてください。一度でもいいので、考えてください」 どの季節だって、晴れの日だって雨の日だって、朝だって昼だって夜だって。笑っていても、泣いていても、怒っていても、楽しんでいても。こうやって傍にいても、どんなに離れていても、この想いはいつだって私にあって。その想いは、たとえ、目をぎゅっと瞑って走り出しても、迷わずそこに行き着く。 --------------すべては、先生の元に。 (だから、なかったことに、しないで下さい) 私の主成分、あなたへの想い。
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