長屋の障子に、日の光を染めつけたような淡い橙色が滲んでいた。 (帰って来たのか) いつもと違う様子に、一瞬だけ理由を探し、すぐに合点がいった。 己がここにいるということは、燭台の灯りをともしたのは同室者の奴しかいない。 無事帰還できたのだ、と安堵を噛みしめ、それから平生を取り戻すために、息を吸い大きく吐き出す。 扉を開けると、まるで塑像のように、一縷の乱れもない背中が直立していた。 久しぶりに見るそれは、何度も何度も繰り返し瞼裏に描いたものと、一寸として違わなかった。 何と声を掛けようか、と迷いつつ足を運び入れたものの酷く乾いた息だけが零れるだけで、結局、無言のまま奴の背後で立ち止まっ た。 「あぁ、仙蔵」 恐らくは足音か気配かで察していたのだろう、大した感慨もない声音で奴は私の名を呼んだ。 追うように上下する視線は書面に貼りついたままの文次郎の隣に腰を下ろす。 書かれたばかりなのだろう、墨の透いた匂いが僅かにした。 「何だ、帰って来たのか」 顔一つ上げない文次郎に嫌味をくれてやると、ようやく奴は私の方を見た。 疲れの滲む濁った目が私を捉え、ゆっくりと瞳孔が収縮されていく。 薄い血の気の相貌は乾いていて艶がなかった。 (少し、やせたな) 「何だとは何だ」 言い返すのもしんどいのか、かさついた唇から覇気のない声が零れ落ちた。 これ以上言い募るもあれだったが、なんとなくバツが悪くて、「ふん、お前がいない間は静かでよかった」と口にした。 すると、文次郎は少しだけ唇を歪めて「悪かったな」と呟き、また書面へと顔を戻した。 「……何、読んでるんだ?」 「前に出されていた課題だ。昨日までだったろう?」 話しかけられるのを厭う様子もなく、かといって、私に構うようでもなく、幾重にも謎の仕込まれた書に真剣な奴の眼差しが注ぐ。 土の黒ずみがこびりついた指先で辿り戻りを繰り返しながら、丹念に読み取っていく。 そんな様子を眺めながら私は出かかったため息を一つ飲み下した。 「学園長のお使いでいなかったんだ、別に出さなくても怒られはしまい」 「まぁ、な。だが、やっといた方がいいだろ」 「相変わらず、くそ真面目だな、お前は」 呆れまじりで言った言葉に文次郎からの返答はなく、私は仕方なく奴の横顔を眺めた。 ほつれかけた髷、こけた頬にうっすらと残る傷跡、幾分深くなった隈の影。 奴が口を割ることはないだろうが、相当大変な任務だったのだろう。 (いつか、こうやって眺めれなくなる日がくるのだろう) それはこの春かもしれないし、もっと早くに来るのかもしれない。 そのことを淋しく思うのは愚(うこ)なことだと頭では理解しているのだ。 だが、こうやって突きつけられるたびに分かっていないことを思い知らされる。 -----------------淋しさに震える、弱さがあることを。 *** じりりっ、と焔が蝋燭の芯を焦がす音が薄闇を弾けさせた。 (そろそろ、刻限だな) 燭皿に垂れ広がった蝋から流れた時間を推し量ると、私は音を殺して腰を浮かせた。 と、私を見上げる文次郎の、その怪訝そうな視線に絡め取られた。 さっきまで全く無視だったのに、と心の中で毒づきつつ、仕方なく事訳をする。 「学園長室に行ってくる」 奴の眉が潜んだのを見て、「しばらく部屋を空けるから、散らかすなよ」と命ずると、ますます眉間の皺が深く険しくなった。 「いつ、立つんだ?」 「今宵」 「出立を明日に延ばすことはできないのか?」 文次郎の言葉に、海の水を飲んでしまったかのように、喉がひりひりと痛くてたまらない。 「……なんだ、文次郎、淋しいのか?」 それでも、からかうように言葉を押し出すと、次の瞬間には、「それは、お互い様だろうが」と強い力に腕を引っ張られ、文次郎の元へと収まっていた。 「ただいま、仙蔵」 耳に温かな温かな声がしみ込んできた。 頭を付ける文次郎の胸の奥で、心の音が聞こえる。 泡沫のように僅かな間だと知りつつ、私は自分の腕を文次郎の背中に回した。 (淋しさに震える心を、その弱さを、一瞬だけ、私は許した。)
さびしさどろぼう
title by 夜風にまたがるニルバーナ |