あまのじゃくの切望
あとどれくらいだろうか、と頭の中でそんなことを考えていると、不意にバランスが崩れた。 ぐらつきそうになる足をなんとか支えようと、思いっきり地面を踏みしめた。 はっ、はっ、と耳を掠めていく息の音が遠い。 (自分のものじゃ、ないみたいだ) 「兵ちゃん、大丈夫?」 呼吸一つ乱れのない、伸びやかな声が届く。 視界の端っこに、リズミカルに揺れる彼の髪が入り込んだ。 まだまだ余力があるのだろう、跳ね返るように響く足音は力強い。 「あぁ。それより、先に行きなよ」 「えっ、でも」 「今年こそ、乱太郎を抜いて一番になるんだろ?」 声を発する度に、入り込んだ空気が喉奥に貼り付いて。 それが肺腑の中から上ってくる呼気を出さまいとしていて苦しい。 途切れ途切れになりそうになる言葉を早口に追い出し、なんとか紡ぐ。 (学園長も、『ひたすら耐久超長距離走行会』なんて面倒な行事を思いつくよな) 毎年の行事だというのに、つい、愚痴めいた言葉が胸を占めるのは、自分に余裕がない証拠だろう。 ずしり、と砲撃に打たれたかのように脳幹が揺れ、一瞬、世界が濁った。 鈍い痛みをを追い出そうと頭を左右に振って。 ---------------隣を走る彼の輪郭が鮮やかに残される。しなやかな刃のような、その様を。 「うん…でも」 「いいから」 心配そうに見やる三治郎の肩を軽く押す。 これからの長丁場を思うと、わずかな動き一つであっても体力を無駄にできないけれど、 見かけと違い、実は頑固で融通の利かない彼を説得するには、 軽口を叩く余裕を見せるくらいをしないと駄目だろう。 カラカラに乾いていく口内を唾で潤しながら、自分に念じる。 口角を上げろ、笑え、と。 「一番になってなきゃ、罰ゲームね」 「えー、何それ。僕だけなんて、ずるいよ。兵ちゃんのは?」 「僕のはいいんだよ。ほら、行きなって。僕は三ちゃんに一番になってもらいたいんだ」 彼から思案していた表情が消え、顎のあたりが、きゅっと引き締まり、柔らかな眼は鋭く、遠くを見据えた。 「うん、じゃあ、ゴールでね」 風が一陣、吹き抜けた。 軽やかなリズムを刻んだ足音は、瞬く間に遠ざかって。 振り子のように行き来する髪が、どんどん小さくなっていく。 迷いも躊躇いも微塵もないその背中の残像を、ただ、見つめることしかできなかった。 (三ちゃんって、あんなに速かったっけ) 目を凝らしても影も形もないのに、その景色を見つめ、そう思う。 普段、授業で走っている分には、あまり彼の俊足を感じたことはなかった。 もともと、僕自身は、性格からして全力で走ったりはせず、ある程度手を抜いていて。 そんなわたしに、三ちゃんが苦笑しながら合わせてくれているのは知っていたけれど、 こんなにも差がついているなんて、知らなかった。 (分かってる。別に、一緒に行こうと約束したわけじゃないし) もやもやとしたものを追い払うように、地面に足を蹴りつける。腕を振る。風を切る。 けれど、一度覆われたその皮膜はゆっくりと、けれど、確実に侵食していく。 からくりの糸で雁字搦めになった時のように、叩き切ることができない。 -----------先に行ってほしい。でも、戻ってきて一緒に行ってほしい。 まるで獣の咆哮のような轟音と共に、冷たい塊に体当たりされる。 冬特有の鎌風に不意に打ち付けられ、体の軸が保てず、そのままグラリと体が傾く。 浮かされた体勢をなんとか戻し--------さっきまで、彼が風避けになってくれていたことに気が付く。 (三ちゃんは、乱太郎に追いつけただろうか。一番になれただろうか) 休みは山伏の父親と修行している、と聞いたのは一年の頃だったろうか。 その時は、へぇ、偉いなぁ、という感想しか持たなかった。 休みから帰ってくると、修行中に見聞したことを教えてくれて。 だんだんと難しくなっていくその内容を、ふーん、と聞くことしかせずにいて。 「今年はたくさん修行したから、今年こそ乱太郎に勝つんだ」と言っていた三ちゃんの顔を、 僕はちゃんと見れなかった。 --------------僕の知らない、ずっと、ずっと遠い所に行ってしまったみたいで。 (三ちゃんなんか、乱太郎に追い付けなければいいのに) 突然、日を蝕えられたかのような、冥さが僕の中に生まれた。 まるで紙に落とされた墨のように、ゆっくりと、けれど確かに広がっていく。 止めようとしても、かき消そうとしても、それは僕に棲みついてしまって、しっかりと根を張っていた。 (あぁ、何、考えてるんだろう) 砲弾のように重くなった足は、とうとう、止まった。 はぁとため息を着く筈が、一気に流れ込んだ空気が喉でささくれ立った。 咳きこんだ途端、瞼の奥の暗闇に眼窩を掴まれ、そのまま引きずり込まれそうになる。 (やば…立ち眩み) 「兵ちゃんっ!」 昏々とした深淵に墜ちそうになる意識が、その声に引き戻される。 「…三ちゃん? どうして?」 「兵ちゃんの様子がおかしかったから…やっぱり、熱があるじゃないか」 額に載せられた手の冷たさに、安堵が広がっていく。 じわり、と滲んで見える三ちゃんは、今にも泣き出しそうな顔をしていて。 彼に伝えたいことはどれも言葉にならなくて、ただ、ひゅう、と枯れた息しか出なかった。 「三ちゃん」 「何?」 「ごめん、」 「何で謝るの? 一位になれなかったことなら、来年もあるから兵ちゃんが気にすることじゃないよ」 チェックポイントまで負んぶしていくよ、という彼の言葉に抵抗する気力もなく素直に負われる。 ゆらゆらと上下するリズムは、まるで海底から水面を見上げているような気分で。 彼の声も遠くなったり近くなったり、ふわふわと揺れて聞こえた。 (違うんだ。そのこともだけど、そのことだけじゃないんだ) 「ごめん。ごめんね。ごめん、ね」 本当に言いたい言葉は、他にあるのに。 ただ、謝罪の言葉だけが三ちゃんの背中に吸い込まれていく。 まるで、それしか知らない赤子みたいにその言葉を繰り返す僕を、彼はあやすように優しく撫でた。 「もう謝らないでよ。僕は大会で一位になるよりも兵ちゃんの方が大切なんだから」 (ごめん、ね)
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