Fly Me to the Moon




吹きさらす風に、ダウンジャケットに身を縮こめながら、門表の傍に立て掛けておいた原付に向かう。

(あ、鍵どこ入れたっけ?)

降りた時の記憶を辿りポケットに手を入れると、防犯用のライトが途切れ、ぱ、っと暗闇が落ちた。
探りに入れた指にキーホルダーが当たり、かちゃり、と音を立てた。
すぐに見つかったことに、安堵を覚える。



座席の下にしまっておいたヘルメットを素手のまま取り出す。
金属の部分に触れると、皮膚に張り付いて剥がれてしまうんじゃないかってくらい、冷たくて。
「早く帰ろう」と独り事を呟き、メットを被ろうと、顔面に掛かる髪を振り払いながら首を後ろに反らして、



「あ、」

まあるいまあるい、月だった。
金色の、やわらかい光を纏ったそれは、とても大きくて。
とっぷりと沈んだ闇の中で、静かに宙をのぼって行くところだった。

(…三郎に見せてあげたいなぁ。電話でもしようかな)

ふ、と、見事な月に、そんなことを思った。





「っと、」

脇腹あたりに妙な違和感を覚え、動きを止める。
ダウンジャケットの中にあるせいか鈍いけれど、確かに携帯が震えていて。
バイブレーションの種類から電話だと気づくと、発信者を確かめずに通話のボタンを押した。



「もしもし、」
「三郎!」

ぴったりなタイミングに、思わず声を張り上げる。
生まれたハウリングに、三郎は驚いたようで。
息を飲むのが、伝わってきた。



「ちょ、雷蔵? どうしたの?」
「あ、ごめん。ちょうど電話しようと思ってたから、ちょっと、びっくりしちゃって」
「何か用だった?」
「用っていえば用なんだけど。」

改めて問われると、『月が綺麗だから』なんて、口にするのが恥ずかしくて、思わず誤魔化した。



「あー、やっぱり、いい」
「何それ。気になるんですケド」

拗ねたような、少し尖った口調に苦笑を返す。



「んー、じゃぁ、帰ってから話すよ」
「わかった。あ、そうそう。今日って家庭教師だったっけ?」
「うん。でも、ちょうど、終わった所。もう帰るよ」
「じゃぁ、待ってる。ハチはバイトだけど、兵助は帰ってるから、3人で食べよう」
「ありがとう。あ、途中でスーパーの前通るけど、何か買ってく物ある?」
「あー、ちょっと待って」

三郎の声の向こう側で、何かを探っているのが伝わってくる。
スーパー袋の中でも見てるのだろうか、ごそごそ、とした音がしばらく続いて。
今度は冷蔵庫だろうか、探している音に、パタンパタンと、空気が締め出される音も加わる。



「あ、グレープフルーツジュース、買ってきて」
「100%の?」
「うん。名前書いてあったのに、ハチが全部飲んじゃったから。
 お金はハチに払わすから、上乗せしてやっていいよ。好きなもの買ってきて」
「それは、ハチが可哀そうじゃない?」
「いいんだよ。名前書いてあるのに飲む方が悪い。何度目、って話だし」
「んー、じゃあ、明日は僕が食事当番だから、
 ついでに、明日の食材を買ってくるよ。あ、ちなみに、夕食のメニュー何?」

すぐに帰れるように、と三郎と話しながら、空いた手で鍵を原付に差し込む。



「オムライス」

その言葉に、思わず空を見上げた。
闇に佇む月は、柔らかく光を拡散していて。
それは、真っ黒のフライパンに広がった溶き卵みたいで。

(なんか、変なの)



三郎がこの月を見たわけではないと思うけれど。
なんだか妙なシンパシーを感じて、思わず笑いが噴き出した。
笑いが止まらない僕に「雷蔵?」と怪訝そうに問いかける彼に、「ん、帰ってから話す」と告げて。










(僕は、もう一度、まあるいまあるい月を見遣った。)