初春を墨にて記す
すん、と浅く息を吐き、今度は辺りの空気を飲み込み腹の底に沈める。 真新しくおろした墨のぼくとつとした匂いが胸に広がった。 閉じていた目を、かっと、見開いて。 穂先に染み込んだ深い黒を携えて、雪原のように白い半紙に踏み込む------- 教師の片付けを促す声に、それまでの空気が一気に弛んだ。 囁くような声が重なりあっていき、やがて休み時間と変わらない騒々しさに包まれて。 もう一枚書こう、という気が萎んでいき、広げていた半紙から文鎮を除けた。 「相変わらず、庄ちゃんは鬼気迫る書き方をするね」 筆を置くのを待っていたのだろう。 隣で硯に余った墨を半紙に吸わせていた伊助が話しかけてきた。 鬼気迫る、という言葉に、さっきまでの自分の形相を思い浮かべて、苦笑いする。 「そう?」 「うん。字にも現れてる。庄ちゃんは筆を持つと人が変わるからなぁ」 「性格と随分違う、と言われるけどね」 はす向かいの机で乾かしている作品を見やり、そう答えた。 あちらこちらに墨の飛沫の弾けた跡が点々としていて、勢いのまま押し切った末筆は掠れている。 周囲からは、冷静、落ち着いている、と評される自分の性格とは、随分と違った筆の跡がそこにはあって。 (初めは先生に意外、なんて言われたしなぁ) 「伊助のは性格が出てるよな」 不意に背後から低い声が届く。 「金吾」 「もう終わったの?」 「あぁ。先生がもう一枚書けって言ってたけどな」 少しこぼすような口調は、彼があまり書道を得意にしてない所にあるのだろう。 乗り気でない金吾は、てっきり、第一希望の自分や伊助と違い、音楽か美術の抽選漏れかと思っていた。 実際に、(残念なことに)書道は人気が低く、そんな生徒も多い。 けれど、以前、彼と話した所、書道が第一希望だと言っていた。 理由を問うと、精神統一になるかと思った、と当然のように答えて。 寝ても覚めても剣道のことを考えている金吾らしい。 「金吾のは?」 「あれ、」 指紋まで汚れた指が差した先には、真一文字。 迷いのない線が力強く横切っていて。 豪気な彼を思わせる文字。 「一?」 「あぁ。一年のはじめだからな」 「ふーん」 「ちなみに、伊助は、今日の書き初めは何て書いたの?」 たっぷりとした余白の中に並んだ、たおやかな文字の跡は、伊助以外には考えられない。 漢字はかろうじて判別がつくものの、柔らかく流れた仮名文字は、さっぱり読めない。 そこに書かれた文字のような緩やかな声で、伊助は読み上げた。 「新しき年の初の初春の今日降る雪のいや重け吉事」 「あぁ、大伴家持か」 伊助の相槌を、チャイムが奪い去った。 「げ、チャイム鳴ったぞ」 「急がないと、帰りのホームルーム!!」 「やばい」 ばたばたと片づけようとすると、手に大量の墨が降りかかった。 (「うわっ」「災難だな」「そういや金吾、顔に墨がついてるよ」「げっ、先に言えよ」)
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