午前2時のカレー
ひたり、ひたりと音を殺して、俺の方に近づいてくる足音。 遠慮がちな軋みと共に、ベッドの端の方にわずかな重みが掛かるのが、寝ている体ごしに伝わってきた。 俺に触れないように気を遣っているのだろう、キングサイズのとはいえ普段なら触れ合う温もりも、「あぁ、いるなぁ」と感じるほどに遠い。 「伊作、そんなに端だと危ない」 「あ、…ごめん、留さん。起しちゃった?」 一瞬萎縮した、申し訳なさそうな声が耳に届く。 物の輪郭が溶け込んでいる濃密な闇に何かが棲んでいるようで。 この部屋には俺達しかいないはずなのに、ついつい、声をひそめて話してしまう。 「いや。ちょうど喉が乾いて、目が覚めてたから。おかえり」 「ただいま」 そう言うと、もぞもぞと、上掛け布団を手繰り寄せるようにして、伊作は俺の方に近づいてきた。 伊作の足裏が俺のふくらはぎに触れ、鼻の頭を俺の胸に押し付けられるのを感じて。 いつもの、定位置に収まる伊作に、俺も、そっと体をねじり、腕を回す。 暗闇から飛び出る蛍光色が、ふと、視界に入った。 ぎゅっと圧縮された闇の中で、それは真夜中を刻んでいた。 耳をそばだてないと、そのまま吸い込まれて消えてしまいそうなくらい、静かな秒針。 大きな仕事を一任された、と、言いにきた伊作の目は、本当に輝いていた。 一日中駆けずり回っていて、夕食を一緒にとるどころか、何時に帰って来たのか知らない日さえあった。 すれ違いの生活は、正直こたえるが、それでも一生懸命に仕事に励む伊作を応援したい、支えたいと思っていた。 けれど、あんなにも輝いていた伊作の笑顔が、だんだん、くすんでいくのが、気になっていた。 『大丈夫か?』と聞いても、無理やり笑みを浮かべて『大丈夫だよ』と答えて。 『無理はするなよ』と言っても、『今、がんばらないとね』と食いしばりながら笑って。 最近は、俺が心配するだけで不機嫌そうになって、でも、すぐに取り繕うように笑顔を見せて。 いつか折れてしまいそうで、怖かった。 (……いや、本当に怖いのは、そうなった時に俺が支えれるか、ということだ) 「伊作」 「ん?」 「いつ、帰ってきたんだ?」 「今、2時すぎだから、30分くらい前かな? 着替えて、シャワー浴びて、ごはん食べてー」 欠伸を押し殺す、眠たそうな声が俺の胸にかかる。 温もりを探し当てた指先は、あたたかく、そしてかすかに湿っていた。 伊作の髪をなでる度に、ふんわりと、小さな花が咲いたような、甘く透いた匂いが伝わってくる。 「あ、」 ふわふわと、闇が柔らかに揺れたのが分かった。 「今日の、カレー、すっごくおいしかったね」 その言葉に、うれしくなる。 『おいしかったよ』じゃなくて。 『おいしかったね』と言ってくれたことに。 -------- 一緒に食べれなくても、その喜びを共有できたことに。 「あぁ、おいしかったな」 本当に、今日のカレーは美味しかった。 辛みの中にコクがあって、まろやかな旨味がルーの中へにじみ出ていた。 今まで、何度もルーから作っているが、こんなにも美味しくできたのは初めてだった。 「うん。すごくおいしかったね。おいしかったなぁ。いつもおいしいんだけど、今日のは本当においしかった」 弾むように『おいしかった』を連発する伊作に、ついこちらも笑みが漏れる。 ここ最近のとは違う、溌剌とした声は、闇をも破りそうな程力強く。 その言葉が俺の中に響き渡り、しみこんでいくのが分かる。 「ね、留さん。何で、あんなに美味しくできたの? 何か、いつもと変えた?」 「んー何だろうな? いつもより玉ねぎは多めにして、あと生姜とかにんにくの量を変えたし。あぁ、りんごも入れたなぁ」 「へー、すごい! そんなに色々変えたんだ!」 「そうだな。けど、はかって作ったわけじゃないから、何で、ってのは分からない」 「ふーん」 「たぶん、二度とあの味はできないだろうな」と笑うと、「そっか、それは残念」という言葉を伊作は溜息のように漏らした。 それから、もう一度、「本当に、おいしかったね」と、かみしめるように呟いた。 大事な言葉を口にするかのように、愛おしげに。 「なんか、プレゼントみたいだった」 「え?」 「最近、仕事がうまくいかなくて、へこんでて。留さんにも心配かけちゃってたね」 「あぁ」 「でも、あのカレーを食べたら、元気出た」 「そっか、ならよかった」 「うん。なんか、幸せな気分になれたよ」 凝らしても凝らしても輪郭すら掴めているのか分からないくらい深い闇の中で。 伊作は確かに笑っているのだろう。 本当の、笑顔で。 「留さん、ありがとう」 (俺たちを、ふわふわと、闇が優しく包み込んでいた)
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