春夜恋




窓から差し込む月明かりがあまりに明るくて、俺は思わずスニーカーに足を突っ込んだ。



「あれ、久々知先輩」
「綾部? どうしたんだ? こんな時間に」
「見ての通り、コロスケと散歩です」

そう言うと、綾部は電柱に鼻を押し付けている、大きな犬を見遣った。



「コロスケって、この犬の名前?」
「えぇ。正しくは、桜ジョゼフィーヌ彩子さん」
「コロスケ、関係ないんじゃ…?」
「コロッケが好きなので」

明快な答えに思わず、吹出してしまった。



「先輩は?」
「俺も散歩」
「今日は月が綺麗ですからね」

その言葉に何かが音を立てた。
とても柔らかな音が。
胸の奥で。



「月があんまり綺麗だったから、思わず散歩に行きたくなってたんですけど。
 なんとなく、この時間って何か出そうじゃないですか。
 なので、コロスケを無理矢理連れてきたんだけど、あんまり役に立ちませんでした」

猫に怯えて動こうとしなかったんですよ、と小さく笑いながら、彼は空を仰いだ。
それにつられて俺も見上げると、ほんのりとした光の帯が俺を優しく包んだ。
金色に近い輝きを放つ月の周りは、王冠。
月明かりに、夜空にはミルク色を重ねた闇が柔らかに広がっていた。
この季節特有の、霞みがかった世界は、優しい気持ちにさせる。



コロスケが鼻をフンフンと揺らすと、綾部も真似をするように目を閉じた。
俺も、穏やかに通り抜ける風に身を委ねてみる。
胸いっぱいに、春が満ちる。



「あ、春の匂い」
「あぁ」

なんだか、嬉しくなった。同じように綾部が感じていることが。
今夜の月みたいな、ほんわりとした気持ちがあった。
月明かりにできた影すら、優しく見えた。







「あ、うち、ここなんで」

他愛もない話をしながら歩いているうちに、綾部の家の前まで来ていたらしい。
我が家へと急ぎ足になったコロスケは、中に入ろうと、繋がれていた縄を首輪ごと引っ張って。
せかすコロスケを宥めるように声をかけて遠ざかってく、その背中に、冷たい風が俺の胸を過った。



「綾部、おやすみ」
「おやすみなさい。また明日」

コロスケにそのまま引かれていった綾部の足がふと止まって、俺の方をまっすぐと見た。



「って、学校は、もうないでしたっけ。
 明日から春休みなの、忘れてました。なんか不思議な気がします」
「何が?」
「先輩に、会えないこと。毎日会ってたから」

不意に、強い衝動が駆け巡った。
綾部のことを知りたい、と。
だから…



「いつもは、何時にコロスケと散歩に行くんだ?」
「いつもは六時半くらいですけど?」
「そっか。じゃあ、また明日、六時半な」

見てみたいと思った。

春霞に漂う朧月も。
花火に身を焦がす月も。
虫の音に耳を傾ける月も。
天の緞帳に凍り付いた冴月も。












(綾部と見てみたい、と思った)