I'm home 「ただいま」「おかえり」
Autumn
Winter
実家からの電車に乗る前に、これを忘れたら絶対困る、と何度も確認した鍵。それを鍵穴に軽く突っ込むと、鍵の凹凸がはまりこんだ手応えがあった。そのまま右に軽く捻りつつ、空いていた左手を引き金にかけ、揺さぶる。半世紀以上は前の、よく使い込まれた古い扉にはめられた磨りガラスが、ガタガタと軋んだ。レールの油がないのか何かが目詰まりしてんのか、それとも、そもそもレールと扉の反が合わなくてずれてんのか。理由は分からねぇが、とにかく、この家の扉は馬鹿みてぇに固かった。引っかける指に力を込めて無理に重い戸を引くと、ひときわ大きな音を立てて勢いのままに横に滑った。途端に、ひそり、とした気配が足もとに忍び寄ってくる。 「ただいま…って誰もいねぇのか」 いつも賑やかな玄関のたたきは、色がなく殺風景で、いつもよりもただっぴろく思える。きちんと揃えられた兵助の革靴も、紐が解けたまま転がっているの雷蔵のスニーカーも、爪先が奇抜な形をした三郎の編上げブーツもない。こたえてくれる人のなさに、じわりと淋しさが募る。 (兵助と雷蔵は、まだ実家か?) 2ヶ月もある大学の休みに浮かれまくって、バイトにサークルに飲み会、それからデートに、と予定を入れまくって。なかなか実家に帰らねぇ俺に、痺れを切らした母ちゃんがとうとう電話をよこした。最初は軽くあしらっていたけど、「盆ぐらい帰ってきなさい」と母ちゃんから電話の嵐に負けて、兵助らの帰省に合わせ俺も実家に戻った。で、帰ったら帰ったで居心地が良くて、長居してしまったわけで。 (俺が最後かと思ったんだけどな) とりあえず、背負ってきた荷物を上がり口に揚げていると、バタバタと忙しい足音が飛び込んできた。 「っ〜なんだ、ハチか」 かなり全力疾走してきたんだろう、肩で息をしながら、その場にへたりこんだ。 「玄関が開いてるのが見えたから、てっきり」 「悪かったな、雷蔵じゃなくて」 「明後日、バイトあるって雷蔵言ってから、今日、帰ってくると思ったんだけどなぁ」 あからさまに腑抜けていく、三郎に対して「お前って、雷蔵のことばっかじゃん」と口を尖らせる。けど、俺の嫌味も、雷蔵が帰ってきていないショックには負けるらしく、三郎から反応は戻ってこなかった。 「雷蔵は分かったけど、兵助は?」 「ほら、お前だって、二言目には兵助だろ」 三郎の言葉に反論できずに玄関で立ち尽くしていると、外から何やら楽しげな声が聞こえてきた。 「「ただいま」」 延々と登ってきた坂に、足が悲鳴を上げていた。提げた紙袋の重みが、ギリギリと腕に食い込んで痛い。圧迫されて、血が止められているせいか、紫の痕が筋状にできていた。最後に立ちはだかる、一番急な坂を前に、荷物を地面に下ろし、休憩しよう、としていると、 「すごい荷物だな」 後ろから聞こえた覚えのある声に振り向くと、「元気だったか?」と、変わらぬ笑みを浮かべた兵助がいた。 (変わらないって言っても、すこし焼けたような気がするけど) 「持とうか、雷蔵」 「いいよ、あと少しだし」 そう断るよりも先に兵助の手が伸びる。たぶん、兵助が予想していた以上の重量があったんだろう、「重っ」とガクンと肩が沈んだ。慌てて「ね、いいから」と告げたけれど、兵助はしっかりと紐の部分を握りしめて歩き出した。 「何、入ってるんだ?」 「お土産。ハチには地酒でしょ、三郎には、きんつばとか和菓子。あ、兵助には特産の揚げ豆腐と豆腐の燻製」 僕の言葉に兵助は「燻製!?」と想像通り、歓声を上げた。その目の輝きに、荷物が軽くなったような気がする。 「わざわざ、一人一人に買ってきてくれたんだな。俺なんか一つなのに」 「僕も一つにしよう思ったんだけどね、一つに決められなくて。 そのうち電車の時間が来ちゃって、いいや、もう全部買っちゃおーって」 兵助は「雷蔵らしいな」と笑った。そんな間にも、ぐんぐんと僕たちの家は近づいてくる。さっきまで遥か彼方にあるような気がしていたこど、こうやって話していると、あっという間なのが不思議だ。 「あー久しぶりだな」 「うん」 家族と同じくらい大切な人達と一緒に住んでいるからだろうか。生まれ育った場所でもなんでもないのに、実家以上に馴染んでしまったこの空間。玄関から聞こえてきた、よく知った二人の声に、自然と頬が緩む。あぁ、会いたかったんだ、って思った。上がった息を整えると、僕たちはその言葉を投げかけた。 「「ただいま」」 鏡の前に立ち尽くした自分は、酷い顔をしていた。カサカサとした肌はやけに乾いていて、目の下辺りの薄い部分は黒ずんでいて隈ができていた。顔を洗ったのに、さっぱりしない。重たい気持ちのまま、洗面所に備え付けられた鏡の右隣に並んだ歯ブラシの中から青色のそれを手にした。 「はよー」 チューブから歯みがき粉を練り出しながら鏡の中の自分をぼんやりと眺めていると、やけにさっぱりとした顔のハチが隣に並んだ。俺の前を過って緑色の歯ブラシを掴み、それから戻る手が、ふと、止まった。鏡越しに溌剌とした光の宿ったハチの目とぶつかる。 「酷い顔だな」 「誰のせいだと思ってんだ」 「へ? 何が?」 「お前のせいで眠れなかったんだぞ」 他人事のような言い種に噛みついていると、「朝から元気だな」と呆れた声に続いて、「おふぁよー」と、欠伸混じりの雷蔵のふわふわとした言葉が背後を通り過ぎた。いくら広い家屋とはいえ、洗面所は一つしかなく、おまけに狭い。水道を使う二人に場所を譲るために、俺はミント味をくわえると、廊下との境目の暖簾の辺りまで下がる。 「で、そんなに激しかったのか?」 そのまま滑り落ちそうになった三郎の言葉は耳で咎められた。しゃこしゃこ、音を立てていた磨いていた手をつい止めて、「は?」と聞き返していた。歯の変な所に当たってガリっとブラシを噛んでしまった。じわじわと喉元に迫ってくる爽やかな味に、思わず目の前にいた雷蔵を押しのけ、コップに水をくむ。そのまま、口をゆすいで顔を上げると、にまにまと楽しそうな視線を三郎が俺とハチと交互に送っていた。 「ハチが寝かしてくれなかったんだろ?」 「…何で、そうなる?」 あまりに唐突な展開に疑問符を頭の中で浮かべていると、雷蔵が顔を少しだけ赤らめて俺の方を見やった。 「さっき、『ハチのせいで寝れなかった』って兵助が叫んでたからさ、つい」 「そうそう。いかにも寝不足、って顔してるし、おまけに、首のとこポツポツ赤いしな」 そう言われて俺は顔より下を初めてじっくりと見た。確かに、鏡でしか見えないけど、首筋で陰になる部分が朱色に擦れていた。それまでは全然だったのに、気が付いたのがダメだったらしい。急にじわじわと肌の奥がざわつくような痒さに襲われる。俺が指を伸ばして爪を立てたのと、「あーそれ蚊だよ、蚊」とハチが事訳するのは同時だった。途端に、「かぁ?」と素っ頓狂な声が上がる。 「そ、蚊。涼しいからって、最近、窓開けて寝てるだろ。夜」 「あぁ、確かに。何だかんだ、まだ出るからな、蚊」 昨夜の惨状を思い出して、ため息を一つ。耳元で聞こえる蚊の音に悩まされて、ほとんど眠れないまま朝を迎えたわけで。「ハチに、酒飲まされたら、身体中あちこち刺されたんだよな」と零すと、同情したように雷蔵が「あー、お酒飲むと、体温が上がって、刺されやすいっていうよね」と俺を慰めた。 「普段なら、ハチの方が体温高いし、上は服着ないで寝てるからさ、ハチの方に寄ってくんだけどなぁ」 「だからって俺のせいじゃねぇだろ」 「だーかーら、ハチが酒を勧めたんじゃねぇか」 口論になりそうになる気配を悟った雷蔵がすかさず、「はいストーップ」と俺達の間を割った。呆れたように三郎が「ま、とりあえず、今日は兵助、襟ある服にしとけよ」と 俺たちを見遣り、それから、はたっと何かに気づいたかのように固まった。すぐさま、三郎の視線が鏡の上の方に向けられて。つられて、俺たちもその視線を辿って----- 「やべ、遅刻だっ」 逆さに映る時計に俺は慌てて水道の蛇口をひねった。 ぽこり、ぽこり、と連なる雲は、鰯雲と呼ばれるものだった。規則正しく列をなして泳ぐさまは、なるほど、確かに魚の群れに見える。 (まぁ、鰯の大群なんて水族館でしか見たことがないけどな) 近くの小学校から『家路』が風に乗って流れてきた。広い空に解き放たれたそれは、拡散され、どこか高いビルなんかにぶつかり跳ね返る様は、波のようにだった。打ち寄せては引いていきらまた打ち寄せてくる。反響し混ざり続けるうちに曲はバラバラになって、いまいちメロディが分からない。でも、それが『家路』だと知ってるのは、長いことここに住んでいるからだ。自分が小学生の時から変わらない、帰宅を促す音。 (早く、帰ろう) そんなこと、あの頃は一回だって思ったことはなかった。この音楽が鳴ると、憂鬱な気持ちと共にずるずると重い体を引きずりながら、仕方なしに家へと足を向けた。もう少し大きくなってからは、『家路』が聞こえる時間なんかに、この街にいなかった。もしくは、目覚ましだった。嫌いな曲だった。でも、今は違う。 (帰ろう、みなが待っている) 手に提げた買い物袋が、がさり、と音を立てた。 滑らかな闇は、月に照らされて、光沢のある布のようだった。段々と深まる季節に、いつもなら墨塗りの壁のみたいに張りつめた宙も、今日ばかりは透けて果てが見えそうで柔らかい。 「うー寒い」 とはいえ、時々、吹き付ける風は冷たいものだった。思わず首を竦めた俺をハチが「やっぱ、上、取りに帰るか?」と覗き込んだ。自然と弾みがつく下り坂は、もう半分以上来ていて、今更引き返すのは面倒だった。 「止めとく。坂上がるのは、一回でいい」 「だな」 優しい夜に二人分の靴音。間断なく聞こえてくる虫の音。色艶を増した空気を深く吸い込めば、冷たさに肺腑が小さく痛んだ。 「あーでも、やっぱ、寒い」 「コンビニ、おでん、売ってないかな」 「あー、あと肉まん買ってさ、食って帰ろうぜ」 「それ、三郎の財布だろ」 ハチが「えー渡したからには自由に使っていいんだろ」と掌で遊ばせている財布は、俺達を追っ払うために三郎が投げて寄越したものだった。 「悪かったな、ハチ」 「へ?」 「じゃんけん負けて」 ぶつくさ言う三郎を宥め、庭でいざ月見酒を呑もうとしたら、つまみやらなんやらを準備し忘れていたことに気付いた。じゃんけんで負けた方が買いに行くことになって。見事に負けたのだった。 「あー、別にいいし。つーか、むしろ俺は嬉しかったけどな」 「何で?」 「久しぶりに兵助とゆっくり話せたし」 柔らかく眩い月明かりに、地面にはっきりと伸びる二つの影。それが一つになるぐらいに、俺はハチへと近づいた。握ったハチの掌は、大きくて、そして温かかった。 年も押し迫った暮の暮、久しぶりに全員がそろった夕食の場は、何となく倦怠感が漂っていた。(というのも、ハチや三郎はクリスマスから年末商戦ってことで、馬鹿みたいにバイトが入ってたからだろう。僕や兵助はというと、最後の最後まで教授の頼みを断り切れず、仕事納めまで付き合ってしまった) 豆腐入りの味噌汁を啜り終えた兵助がぽつり、と呟いた。 「あ、ゴミ出し、明日までだな」 兵助の視線の先には、冷蔵庫に貼られたごみ出しの曜日が書かれたカレンダー。小鉢のしいたけと格闘していた三郎がすぐさま反応する。 「げ、マジで? 大掃除してねぇのに」 「おー。次はいつだろうな?」 兵助の正面に座っていたハチが、椅子から立ち上がって見に行く。普通、行政が出すカレンダーは年度末で区切れると思ってたけど、どうもこの地区は違うらしく、ごみ袋のマークは付いているのそれは今年の12月までのものだった。 「あー、小さく書いてある。うげ、次、正月三が日明けだぞ」 「おぃ、馬鹿左ヱ門、さっさと掃除しろよ。嫌だぞ、ゴミにまみれて新年を過ごすなんて」 「それを言うなら、雷蔵もだろ」 三郎の言葉にすぐさま反論をしたハチの飛び火はこっちに来た。あー、って顔してみないでよ、兵助。僕だって分かってるんだからさ。元々、物が少ない兵助と変なところで几帳面というか綺麗好きな三郎は大掃除といっても大したことないだろう。問題は、物が足の踏み場のないってくらいたくさんあるハチと、それから迷ってしまって物をなかなか捨てれない僕だった。 「あーうん、頑張るよ、今から」 *** 「どう、雷蔵?」 ひょこりと顔を出した三郎は、僕の部屋の惨状に顔を引きつらせた。ため息すら出ないようで、目眩がするとでも言うかのように、軽く天を仰いだ。 「これ、明日の朝までに終わるか?」 「終わらせる、よ。多分」 僕の声に弱音を嗅ぎとったのか、三郎が手伝い始めた。「いつもの大雑把を発動させればいいんじゃないか」と、彼の足元に転がっていた何かを拾い上げる。そうなのだ。一度投げ出してしまえば、さっと片づけれるのだけど、僕の場合は「捨てるべきか取って置きべきか」で時間がかかってしまう。 「技みたいに言わないでよ」 「すまんすまん。けど、さっさとやらないと、本当に終わらないぞ。これ、捨てるぞ」 サクサクと仕分けしていく三郎の手には、プラスチックで象られたキャラクター。夏頃に集めていて、結局、シークレットだけが出なかったペットボトルのキャップホルダーだった。 「え、ちょっと待って」 「待たない」 「せっかく、集めたのに」 「じゃあ聞くけど、これ、飾ってあった?」 痛いとこを突かれたと思いつつ首を振ると畳み掛けるように「使う予定があるのか」と尋ねてくる。「けど、」となおも食らい付くと三郎は「使うかも、は99パーセント使わないからな」と容赦がなかった。 *** 「雷蔵、この箱、何?」 そんなこんなで僕の部屋の仕分けが始まって数時間、見違えるほどさっぱりしたところで、三郎がベッドの下から見つけてきた。 「や、それは駄目」 「何なに、やらしーの?」 「三郎じゃあるまいし……とにかく絶対に見ないでよ」 「そうやって言われると見たくなるんですけど」 僕が止める間もなく三郎は「あやしー」と嬉々として箱を開けて、それから、ぽかりと口を開けた。 「これ、」 「……だから見られたくなかったのに」 恥ずかしいなぁ、と続けると三郎は「いっつも、びりびりに破るから、捨ててると思ってた」と呆気に取られたように呟いた。箱の中に入れてあったのは、包装紙だった。三郎がプレゼントや土産なんかをくれた時に包んであった、それ。贈られた物はもちろんなんだけど、それも捨てれなくて。手先が不器用なのか何なのか、開封する時はテープがうまく剥がれなかったりして、たいてい包装紙は破れちゃったりして、もう使い道がないって分かってるんだけど。けど、ずっと、捨てれなくて、こうやってこっそり仕舞っていた。 「もしかして、全部、取ってあるのか?」 「……うん」 「やべ、なんか、嬉しいかも」 「ハチ、遅ぇ」 「しかたねぇだろ、5人分用意してんだから」 三郎の文句に噛みつきながら、ハチは両手に抱えた丼を机に勢いよく置いた。ふわり、と鰹だしの柔らかい匂いが湯気と共に上りたった。つやつやした醤油色の汁が食欲をそそる。 「うわっ、おいしそ〜」 「だろ…って、何で勘までいるんだよ」 何でってねぇ、誘われたしねぇ、と勘ちゃんと顔を見合わせてると、三郎が「のびるから、先食ってんぞ」と箸に手を伸ばした。その腕をベシリ、と雷蔵が叩く。 「もうちょっと待ちなよ」 「ふやけた天ぷらなんて、天ぷらじゃない。雷蔵だって、えび天はカリカリしてた方がいいだろ」 「そうだけどさ…」 ため息混じりの雷蔵に「俺はふやふやな方が好きだな」と勘ちゃんが呟いた。 「じゃ、それ勘のな。次、すぐ運んでくるから、待ってろよ」 「急げよ。30秒だ」 「あのなぁ。なら、こたつで寝転がってねぇで、手伝えよ」 丼がでかいから3つは大変なんだよ、とぼやくハチに「手伝う」と俺はこたつを抜け出した。 *** 「鍋、熱いから、気をつけろよ」 「あぁ」 普溜まり場とはいえ、さすがに丼は5つもない。どうしようか、と見回し、シンクの横に伏せてあったお椀を使うことにする。ハチはというと、隣でネギを刻んでいた。まかないが美味いという飲食店でバイトを始めたハチは手際よく量産していく。 「なんかさ、小学生の頃、思い出す」 「小学生?」 「そう。俺ん家、夜更かしできるの大晦日だけでさ」 ザルに揚げられて水をきっていた蕎麦はすでに、引っ付き気味だった。菜箸でそれと格闘しながら「それで」と相槌を打つ。 「すっげぇ、はしゃいでさ。…まぁ、紅白が終わる頃には寝てんだけど、とにかくワクワクしてさ何かそんな感じ」 「あー分かるかも」 お玉を手に取り、鍋から掬って、丼とお椀にだし汁を入れていたハチが、ふと、呟いた。 「けどさ、よかったのか?」 「何が?」 「家、帰らなくて」 バイトも入れてなかったんだろ、と続ける彼に「あーさっき電話したからさ」と返す。去年までは家族と過ごしていて今年も当然、と思っていた母親はギリギリまで帰省を促していて。所構わず携帯に電話してくるもんだから、ハチらには衆知の事実だった。まだ何か言いたげなハチに笑いかける。 「こっちで友達と年越しするって言い張る俺と母さんの間に、ばぁちゃんがさ入ってくれたんだけどさ、」 「おぉ」 「『普段聞き分けのいい兵助がそこまで言うのだから、余程、素敵な人たちなのね』って」 ほこほこと優しい匂いが漂う中、ハチは「いい、ばぁちゃんだな」と微笑んだ。 「あぁ。お前たちと、ハチと出会えて、本当に良かったよ。最高の一年だった。ありがとうな」 「俺も。来年も、よろしくな」 「うげっ、すげぇ人」 「まぁ、しかたないって。今日は元旦なんだから」 こんなたくさんの人に祈られて神様も迷惑してるだろうな、なんて文句を垂れてる三郎を宥めながら、なんとか歩を進める。まぁ、三郎が悪態を吐きたくなるのも分かる気がした。四方八方見回しても、人の頭。なんとか酸素を取り込む空間を確保しようとふん張る足は踏まれて、右にも左にも前にも後ろにもいけない体は、ぎゅ、っと潰されている。 「ちっとも進まないな」 「うん。規制されてるみたいだね」 このあたりでは有名なこの神社に「初詣に行こう」と言い出したのはハチだった。ぐだぐだと年越しそばを食べて、紅白の特典も見て、いつの間にか新しい年を迎えていた。「あー今年もよろしく」「こちらこそ」なんて、わざとらしくペコペコと頭を下げているうちに眠くなってきた頃合いだった。行きたくない、って駄々をこねたのは三郎で。おそらく出てるであろう屋台の甘酒と田楽豆腐につられた勘ちゃんと兵助に「行くだろ」と誘われて「うん」と頷けば、こたつの中で蓑虫状態だった三郎がもそもそと動き出した。「行くんだろ」と。 (なんだかんだで、淋しがり屋だよなぁ) ふふ、と笑いをかみ殺していて、列が動き出したのに気付かなかった。押し寄せる人波に呑みこまれそうになる。あ、っと思った瞬間には、体が崩れ落ちそうになって。 「っ」 「雷蔵っ」 こけそうになる寸での処で強い力に引っ張られた。そのまま、どすり、と受け止められる。「大丈夫か?」と耳元に三郎の温もり。視線を上げてみれば、すごく近くに三郎の顔があった。途端に、心臓が跳ね上がる。「あ、三郎、ごめん。ありがとう」と、慌てて離れようと思っても、身動き一つ取れなくて、そのまま三郎の胸元に収まるしか術がない。 「ごめんね、もたれかかっちゃって」 「次、動くまでいいよ」 「ありがとう。あ、兵助たちは?」 「今ので、前に行ったみたいだな。けど、大丈夫だろ、携帯、持ってるし」 三郎が喋るたびに、彼の胸に押しつけた耳がくすぐったい。温かくて、幸せだった。 *** 「なんか、すごいな」 「うん」 ようやく本殿前に着けば頭上を小銭が飛んでいく。警備員さんが「止まらないでくださーい」と叫んでいて、なんだか物々しい。落ち着いてお参りできない雰囲気だったけど、せっかくここまできたのだから、と財布を探って100円玉を掴み、それから、はた、と気付いた。何を祈るか、決めてなかったことに。 (何、願おうなぁ。んーと家族の健康でしょ、それから学業も。あと皆が笑顔でいられますように。三郎とずっと一緒にいられますように。こんなに願ったら願いすぎかなぁ。一つに絞らないと叶わないっていうし、けどなぁ) ちらり、と横目を見れば三郎はもうお賽銭をおさめた後のようで、閉じた瞼に睫毛の影が淡く落ちていた。ほんの、1,2秒。す、っと開かれた三郎の目に切り結ばれる光は靱くて。心臓が、鳴る。 (何を祈ってるんだろう) 「雷蔵、どうした?」 こっちの視線に気づいたのか三郎が僕の方を見やった。慌てて「ううん。なんでもない」と手をかぶり振ると、「何願えばいいのか迷ってるんだろ」とからかってきて。「そんなことないって」と握りしめて温かくなった小銭を賽銭箱に投げた。それから、さっと目を閉じて、手を合わせる。 (僕の大切な人たちが、幸せでいられますように) すぐさま目を開けて「ほら行こう」と三郎の手を引けば、繋いだ先から、面白がるような震えが伝わってきた。 *** 繋がらない携帯で連絡を取りようやく落ちあうことができて、僕らはかなり疲れ果てながら帰路についた。僕はといえば、三郎のさっきの表情が頭から離れなくて。気がつけば、歩く速度が落ちていたらしい。先を歩く3人に影が踏まれないくらいの距離が開いていた。 「雷蔵、大丈夫か?」 「え?」 「さっきから、一言もしゃべってないから」 「ん、」 少し先を見れば、いつもの光景。何やらハチが面白いことを言ったのか勘ちゃんの肩が揺れ、兵助がハチを軽くどついていた。年が変わっても、変わらないもの。僕の歩幅に合わせて歩く三郎に「あのさ」と話しかける。 「さっき、何、祈った?」 「雷蔵は?」 「僕は……内緒」 「じゃぁ、わたしは雷蔵と同じことって事にしておこう」 「ずるいなぁ」 僕の言葉に「お互い様さ」と笑っていた三郎は、ふ、と表情を引き締めた。吹き抜ける風が、耳をキンと痛めつける。前を見つめる三郎の視線の先は、ずっと遠かった。さっきと同じ。 「わたしは、神様に、祈り事はしない性質なんだ」 「じゃぁ、目を瞑って、何を考えてたのさ」 「大切な人が、幸せでいられますようにって」 思わず「同じだ」と言いかけた僕の唇は、柔らかに微笑む三郎のそれに塞がれた。 「そうなれるよう、努力するから見ておいてくださいってね」 |