※五忍無配本


突き刺さるような冷たい風に曝され続けた頬は、ひび割れそうなくらい固まっていた。しっかり被ったニット帽をさらにずり下げ、ぐるぐるにしたマフラーに口元を巻き込む。それでも、どうしても目の辺りを防寒することはできず、自然と目が潤んでくる。

(あー、早く家に帰って温まりてぇ)

部屋に帰ってもストーブやエアコンが付いてるわけじゃねぇが、それでも、この極寒地獄名外よりはマシだろう。エアコンとストーブのスイッチ入れて、こたつの中に潜り込んで、ストーブが点火するまでやり過ごす---------そこまで考えて、ふ、と石油の残量が気になった。

(あとちょっとだったよな……まぁ、今夜くれぇはもつか)

俺がひとり暮らししているのはアパートだったが、昔ながらの古い(というかボロい)建物のせいか、やたらとすきま風が多く、エアコンではとてもじゃねぇが暖まらなかった。だから、大家の好意で石油ストーブを使えるのは有り難ぇ。唯一の難点は、灯油切れの度に、階下のスペースにある灯油缶から入れねぇといけないってことくらいだ。汲み入れるのに、手動のポンプ式のと、何か電池で動いてるらしい自動で吸い上げて入れてくれるのとあって、もちろん、機械式の方が楽は楽なのだが、

(どっちにしろ、ずっと見張ってねぇといけないしな)

コンクリートの地面に置かれている石油缶は個々のものだったが、その場所は共有スペースなために、入れっぱなしにして溢れ出ないように見ておかなければならないのだ。時間の間隔を置いて、と一度ほったらかしにしておいたら、流れ出てコンクリートに染み込んで大変な目に遭った。それ以来、石油を入れている間は固唾と離れずにいるのだが、

(このクソ寒い時に入れるなんて、ぜってぇ嫌だよなー)

どうせなら、まだ太陽の温かさがある昼間に入れておきたい。明日の朝の分までもたせようとすると、最初の暖める時にだけ付けて、後はエアコンとこたつで我慢だな、なんて考えながら、家路を急ぐ。大晦日のせいか、この時間のせいか、いつもよりも街は賑やかな談笑の空気が漂っていた。

(あーにしても、疲れた。まさかこんなに人出がねぇなんてな)

正月に実家に帰るつもりはなかったから、別に大晦日にバイトを入れられても別に何とも思わなかった。むしろ、バイト代上乗せするし、という言葉にラッキーって思ったくらいだ。店長の「すまないな」って言葉の意味が分かったのは、実際に今日になってからだ。学生バイトは地元に帰って、パートのおばちゃんらは家の大掃除で休み。俺と店長ともう一人のバイトで回さなきゃいけねぇ、なんて最初に聞いてたら、絶対に断ってただろう。

(まぁ、けど、この時間で帰れたのはマシだな)

大晦日っつうことで、営業時間がいつもより短かったから、店を閉めた後の掃除とかしても10時過ぎには上がることができた。これで、いつもの時間でしかも三人で片付け、とかなったら、普通に日付を越えていたはずだ。そう思えば、全然、早ぇ方なんだが疲れ切っていて、楽できた、って感じにはならねぇ。とりあえず、エアコンとストーブ付けて、こたつに入って温まってそのまま寝る---------そんな幸せな夢を見ながら、疲れた体を引きずり引きずり家まで持ち帰って、ドアを開けた瞬間、

「ん?」

妙な違和感。寒い、と予想していた部屋が、温かい。ドア越しの僅かな隙間から届いた空気は、まったりとした温もりがある。まさかエアコンとか付けっぱなしにして出てったのか、と焦って、掴んでいたドアノブを引っ張り、扉を全開にして-------------玄関に並んでいる靴の山に、俺の思考は停止した。ちょっとごつめのコンバット風のブーツは壁に立て掛けられ、その隣にはもこもことしたファーが付いたブーツが転がっている。その隣には、きちんと揃えられた黒の革靴。一番右手にあるショッキングピンクのスニーカーは目に痛い。

(はぁ?)

ってか、そもそも、鍵が開いている地点でおかしいことに気づくべきだった。ぼけ、っとしながらドアを開けたからスルーしそうになったが、確かに鍵を掛けていったはずだ。それなのに開いているということは、

「お、ハチ、おかえりー」

部屋の右手、トイレから当然のように出てきたのは勘ちゃんだった。呆気に取られつつ「おぅ」と応じれば、「早く上がって上がって」と、手招きされる。いや、これ、俺の家なんですけど、と言いたかったけどけど、「ハチ帰ってきたよー」と声を上げながら、さっさと部屋の奥に言ってしまった勘ちゃんに言う機会を失ってしまった。とりあえず、置く場所がねぇスニーカーを三和土の真ん中に転がして、そのまま家に上がり、勘ちゃんが向かった部屋---------寝る場所であり飯を食う場所でもありゲームしたりレポートしたりする場所-------つまりは、この家のトイレや台所や風呂以外の唯一の部屋に俺は足を踏み入れた。

「おかえり、ハチ。お疲れさま」
「お前、何で、んな早く帰ってくるんだよ」
「ちょっと、三郎。何てこと言うのさ」

対称的な言葉と表情をしたのは、こたつの一辺に並んだ同じ顔の二人だった。労ってくれる雷蔵の優しさが身に染み渡る分、三郎の言いぐさが余計にむかっときて、「何でお前にんなこと言われなくちゃならねぇんだよ」と言い返そうとした。だが、それよりも先に、勘ちゃんと兵助が口を開く。

「鉢屋、後でおしるこな」
「俺、豆腐田楽がいい」
「くそっ、絶対、ハチの帰りは12時回ると思ったんだけどな……つうか、何、兵助、便乗してるんだよ」

その会話で、どうやら俺の帰宅時間が賭けのダシに使われていたらしい、ってことが想像付いた。この部屋の暖まり具合からして(ここは春か、って思うくらいに温かい)、ずいぶん前からグダグダしゃべりながらいたのだろう。人が汗水垂らしてバイトしている間、何やってんだよ、と言いたくなる。

「だって、豆腐食べたいし」
「食べたいし、じゃねぇし。お前とは賭けしてないから、奢らねぇ」

三郎にそう跳ね除けられれば、ちょうど二人の反対側に座っていた兵助は「えー」と口を尖らせた。すぐさま「えーじゃねぇし」と返す三郎に、「奢ってあげればいいのに」なんて雷蔵がのんびりと声を掛ける。一瞬迷ったような表情をしたのは、三郎が雷蔵に弱いからだろう。しばらく眉を潜めていたが、「雷蔵に言われても!だ!兵助にやる義理はねぇ」と三郎は言い切った。すると兵助の隣に座っていた勘ちゃんがフォローに入った。

「あ、なら俺が奢るよ。ハチのバイト時間短いって教えてくれたの、兵助だし」
「やった。勘ちゃん太っ腹」
「な、お前、んな、最初から答えが分かってる賭けなんて賭けじゃねぇだろ」
「だって、聞いたら駄目とか、特にルール指定なかったし」
「ずりぃ。裏あるとか聞いてねぇし。こんなの無効だ、無効」
「えー、そんなの言わなかった鉢屋が悪いんじゃん」

ぎゃぁぎゃぁ騒いでいる二人を呆然と見ていると、「ハチも座ったら?」と雷蔵が床をとんとんと手で叩いて指し示した。とりあえず、雷蔵と兵助の間、空いていた一辺の所に座り、ぐるぐるに巻いていたマフラーとか上着を取っ払えば、兵助が立ち上がってハンガーに掛けてくれた。

「あ、悪ぃ」
「お疲れ、ハチ」
「おー。なんか、帰ってきてから、どっと疲れたんだけど」

まだ言い争っている三郎と勘ちゃんに「お前はいいのか?」と、あの会話の中に入らなくて、というニュアンスを込めて、兵助に聞いてみる。すると、「俺は奢ってもらえたらどっちでもいいし」とクールな受け答えが返ってきた。雷蔵はといえば、のほほんとしながら「いつ終わるだろうねー」と二人を見遣る。デットヒートした賭け話は、どうやら、じゃんけんで決着を付けよう、って話になってるようだ。

「いつ終わるんだろうな?」
「何分後に終わるか賭けてみる?」
「止めとく。そのうち終わるだろ」
「そっか、それもそうだよね」
「あ、ハチ」

不意に兵助に話を振られて、どっちの会話にも中途半端に耳を置いていた俺は「え、あ、何?」とずいぶん間抜けな声を上げてしまっていた。そんな俺など関係なく、俺の方に「とりあえず、何か食べたら」とテーブルの上に置いてあるポテチを寄越される。そう勧めてもらったものの、袋が開かれて銀色の面が皿代わりに使われているそれはほとんど残ってない。小さな、割れた欠片がいくつかあるだけだ。だが、バイト上がりの空腹に耐えられなかった俺は手をのばして、ふ、と気づいた。

「これ、俺の部屋にあったやつじゃねぇ?」
「あーそうかも」

よくよく見れば机の上に散乱している菓子やジュースは、台所のスーパー袋に入れてあったやつだ。正月に家から出なくてもいいように、と昨日、スーパーで買い占めてきた物ばかりで。それが、ほとんど開封されている。おいおいおいおい、と突っ込もうとした瞬間、

「やった」

浮かれた声の持ち主は勘ちゃんだった。その傍らにいた三郎はがっくりと肩を落としている。それを見遣った雷蔵が「あ、終わったみたい」とのんびりと告げ、「だな。勘ちゃんの勝ちか」と兵助が応じた。と、ピー ピー ピー 電子音が響き渡った。何の音だ、と思っていれば、

「あ、灯油切れ」

ちょうど近くにいた雷蔵がそう反応する。見遣れば、オレンジ色のランプが給油を知らせていた。節約すれば朝までもつだろう、と考えていたストーブの石油は、こいつらが長時間付けていたせいで、思っていたよりもずっと早くになくなってしまったようだ。

「ハチ、入れてこいよ」

じゃんけんに負け、奢ることが決定したんだろう。不機嫌な声で三郎が言ってきた。さすがにそれは理不尽すぎる、と「はぁ? お前が使ったんだからお前が入れてこいって」と反論の声を上げた。いくらなんでも、酷すぎる。さすがに悪いと思ったのか兵助が「こればかりはハチが正論だな」とフォローしてくれたけど、三郎が「じゃぁ、兵助、行く?」と訊ねれば、心底、寒いのが苦手な兵助はこたつ布団を引き上げて「ちょっと遠慮しておく」とあっさり掌を返してしまった。気の毒に思ったのか「いいよ、僕行ってくるよ」と雷蔵が言ってくれたけど、「雷蔵が行くことないだろ」とすぐに三郎に却下される。と、勘ちゃんが目を輝かせて言った。

「じゃぁ、ここは平等にじゃんけんでどう?」

(うわぁ、嫌な予感しかしないんですけど)

***

「うー、何でこうなるんだよ」

勘ちゃんがじゃんけんを提案してきた地点で予想はしていたけど、ものの見事に俺は負けた。おまけに、電動で灯油を吸い上げる機械が壊れてて原始的な手押しポンプで入れるしかなくって。しゅぽしゅぽ、と頭の赤い部分を押し続ける。握った手には、しっかりと石油独特の臭いが染みついていた。曲がりそうな鼻を、すん、と啜り、ストーブの灯油タンクを睨みつける。

「これ、壊れてないよな」

なかなか溜まらないゲージに、つい、愚痴が漏れた。空を仰げば、いつもよりもどこか賑やかな夜空。寒さにぶるり、と身を震わせる。部屋の中から聞こえてくるあいつらの楽しげな声に、ちくしょー、と心の中で叫び声を上げていた。

(あー、クソ。何、楽しそうに話してるんだろ)

***


「ほら、入れてきたぞ」

石油のタンクをストーブに突っ込み、こたつの中に足を先にして全身を押し入れる。こたつ布団を思いっきりたぐり寄せれば、隣の辺に座っていた兵助がちらりと俺の方を見た。俺が引っ張った分、丈がきっと短くなったんだろう。けど、さすがに文句を言ってくることはなかった。

(これで言ってきたら、ぐれてやる)

そりゃ、給油するときに十分も掛からねぇだろう、とコートを着なかったのは俺が悪いかもしれねぇが、そもそも原因を作ったのは、四人の方だというのに。

「もう、絶対、こたつからは出ねぇからな」
「何もそんな宣言しなくても」

さすがにそうやって声を掛けてきた雷蔵や兵助は悪いって思ってるみたいだけど、勘ちゃんは何考えてるか分からないし、三郎に至っては明らかに面白がっていたわけで、そうとでも言っておかないと、残りの二人に、またこき使われるのが目に見えてる。

「食糧はもう出してきた分しかねぇからな。あ、みかんは台所にある」

そう言い切って、俺はこたつ布団の中に体を沈めた。何か言ってくるか、と思ったけど、三郎も勘ちゃんもそれ以上言うことなく、テレビの方に視線を向け、今年の歌のはやりがどうの、とかそんなことを口にしていた。気を利かせた雷蔵が「僕、トイレのついでにとってくるね」と席を立つ。氷の塊みたいになってしまった体はこたつの熱に温められ、じんじんと痛い。それでも、しばらくそこでじっとしてれば、少しずつ痺れも和らいでいき、ぬくぬくとした。

(ふぃーあったけぇ)

温かくて気持ちいい。このまま寝てしまえたら幸せなのになーと、こたつ布団を顔の辺りまで引き上げてくるまっていることに決めた。バイト上がりで疲れが溜まっているのもあったんだろう、うとうと、と四人の声が遠くなる。まどろむ温かさ。------------------と、ふ、と右側から足下をすきま風が撫でた。何だ、と、ぱ、っと顔を上げれば、

「さてと、そろそろ行くか」
「そうだね」

三郎と雷蔵がこたつから出て立ち上がったところだった。と、反対側からも、すぅ、と冷たい風がこたつの中に入り込んだ。兵助までもこたつから座を退け、鴨居の部分に引っかけてあったハンガーから彼の濃紺のコートを取っているところだった。ぱ、っと前を見れば、すでに勘ちゃんはピンク色のダッフルを着ている。あまりに突然な展開で訳が分からずにいると、突然、テレビが消された。いつの間にか演歌歌手のゾーンになっていた紅白が、ぱ、っと途絶える。ここに来て、ようやく自分がちょっと寝ていたことに気が付いた。

「へっ、ちょ、どこに行くんだ?」

誰に聞けばいいのか分からず、とりあえず、辺りをぐるぐる見回しながら聞けば、ニットキャップを被っていた雷蔵が「とりあえず、除夜の鐘鳴らして神社に行こうか、って話になったんだけど」と教えてくれた。コートのボタンをきっちりと留め終え、真っ白のマフラーを手にしていた兵助が「ハチ、寝てたから起こすの悪ぃと思ったんだけど、行くか?」と聞いてきて。

「行く、行くし。当然行く」

と、慌てて布団をはね除けた。一人で残るとか、マジ、冗談だろ。どうせ風よけなんだろうけど、柄の悪そうなサングラスを掛けた三郎が「お前、絶対、こたつから出ないつっただろ」とニヤニヤ笑ってきたけど無視しておく。勘ちゃんは一人マイペースに「除夜の鐘って、俺、衝いたことないや」なんて、ニットキャップの上からもこもこした耳当てを被っていた。

「今から行って衝かせてもらえるかどうか分からないけどな」
「そうだよな。今、いくつくらい鳴ったんだろう?」
「百個くらいじゃない?」
「雷蔵、それ適当に言ってないか? 百八までしか鳴らさないのに」
「うん。でも、早く行った方がいいよね」

そんな四人の会話を尻目に俺も慌てて準備する。てきぱきとストーブやエアコンが切られていく音がする。バイトから帰ってきた時に兵助がハンガーに掛けてくれたダウンをもぎ取って、そのまま上に来て、ジッパーをざっと首まで挙げる。慌てたあまり、下に着ているパーカーがダウンの間でぐしゃぐしゃになって詰まってしまって気持ち悪ぃ。手を背中に回して治すけど、なかなか治らねぇ。マフラー、キャップ、って辺りを見回すけど、見つからねぇ。

(おかしいな、バイト帰りの時は付けてたはずなのに)

もしかしたら、こたつの中に押し込まれてるんだろうか、と覗き込んだけど、すでに電源が落とされて、暗くてよく見えねぇ。間抜けな格好になるのを承知で、頭を突っ込んで、ごそごそと捜してみるけど、見つからなかった。なら、別のヤツがあったはず、と、クローゼットを開けようとして、

「ハチ、遅い」

と、三郎の声が玄関からした。振りかえれば、もう準備万端、しっかりと防寒具を身に付け、靴も掃き終えた四人が扉の所で待ってて。慌てて「ちょ、待って」と叫んだけど、「早く行かないと、除夜の鐘が終わっちゃう」なんて雷蔵に言われて、俺は帽子とマフラーの捜索を諦めた。

「置いてくぞー」

三郎のドアを閉めようとする行動に、やばい、と俺はとりあえず机に放り出してあった長座財布だけ掴んで、尻のポケットに押し込んで、部屋を飛び出した。転がってたスニーカーに足を突っ込んで、締まりつつある扉を足で挟んで止める。その間に、傍の棚に置いてあった鍵を取り、それから隙間をすり抜けるようにして外に出た。

(う、やっぱり、寒い)

けど、なんだかんだいいつつ、数メートル先で待っている四人を見たら、今更、部屋に取りに戻る気にはなれず、俺は部屋の鍵を掛けた。ちゃり、と涼しげな音が鳴るキーホルダーは、俺の誕生日にこいつらが送ってくれたヤツだ。それをポケットにしまう。四人の元に追いつけば、三郎が一歩を踏み出した。

「じゃ、行くか」

***

今年を追いやる鐘が、街に響き渡っていた。建物にぶつかり、跳ね返り、まだ巡り逢って拡散していく。どこかで鳴れば、また別のどこからか聞こえてくる。一年の内、今日だけしか遭遇することのできない情景。その中を俺は行き先も知らずに歩いていた。どこに向かってるのかさっぱりなのだが、とりあえず他の四人に付いていけば間違いはねぇだろう。

「寒ぃ」

風がひと曝し吹き抜ければ、寒さが顔面を直撃した。バイトから帰ってくる時も寒いとは感じていたが、一時間違うだけで、またぐっと冷え込んできたようだ。おまけに今はマフラーもニット帽もねぇ。口元ギリギリまでダウンジャケットを引き上げてるが、当然、避けきれるものでもねぇ。歯がカチカチと鳴る。

「あれ、ハチ、マフラーは?」
「見つからなかった」

隣を歩く兵助はただでさえ色白なのに、透けてしまいそうなくらい、ますます白かった。ただ、表情に代わりはない。寒さなんて感じてねぇように一見、見えるが、実際はかなりの寒がり低体温で、今だって、相当冷たくなっているはずだ。ただ、それが表には出てこないだけだ。

「そっか。貸してやりたいけど、」
「いいよ。兵助も寒いだろうし」
「あ、なら、僕の貸そうか?」

話を聞いていたのか、少しだけ前を歩いていた雷蔵が振り返った。すぐさま三郎から「雷蔵が風邪引くから駄目だ」とストップが掛かる。三郎に「俺が風邪引いてもいいのかよ」と突っ込めば「馬鹿は風邪を引かないっていうだろ」と、あっさり返された。はぁ、と声を上げたが、雷蔵の「ちょっと三郎」と諫める言葉の方が上回った。さらに三郎が盛大なくしゃみをして、中断を余儀なくされる。と、「鉢屋の場合は薄着で風邪引きそうだけどね」と勘ちゃんの援護が入った。格好つけてるのかなんなのか、やたらと中が薄着だったことを思いだし、突っ込んでやろうと思ったら、

「まぁ、神社の方は甘酒とかラーメンとかの屋台も出てるから、それで温まればいいよ」

と、すぐに勘ちゃんは別の話題に変えてしまった。兵助が「甘酒、いいな。田楽も食べたいけど」と乗っかり、雷蔵も「今年はどんな屋台が出てるのか楽しみだね」なんてうきうきと話し出すものだから、三郎に反撃する機会を俺は逸してしまった。

(まぁ、いいけど)

どうせ、いつものことだ。三郎にからかわられて、雷蔵が三郎を諫めて、勘ちゃんが別のことを言って、兵助が応じる。そんな毎日。今までずっと続いてきた、当たりめぇの日々。----------------そして、来年も、それから、その先もずっと続いて欲しい日々。

「ハチ、何、笑ってるんだ?」
「や、何でもない」

鐘をかき消すように、俺は足音を夜に響かせた。

***

「すごい人だね」
「この街じゃ一番大きい神社だからなぁ」

雷蔵の言葉の通り、神社へと続く参道はものすごく混んでいた。とはいっても、テレビや新聞に載るような有名神社みたいな行列ができてる、ってことはない。去年もこうやって五人で連れ立って来たが、おそらく、拝殿の周りに人だかりができている程度で、あとはこの参道みたいに、そこそこ混み合っているといった感じだろう。

「あ、おしるこ発見」

嬉しそうに声を上げてふらふらと吸い寄せられそうになった勘ちゃんに、「勘ちゃん、まず、お参りしてからにしようよ」と雷蔵のチェックが入る。頬を膨らませて「ちぇ」と零した勘ちゃんに幼子を宥め賺すような口調で「後で、三郎に奢ってもらうんだろ」と兵助が返す。兵助の言葉に、すぐに勘ちゃんは店の前から戻ってきて、それから「鉢屋、忘れるなよ」と三郎に声を掛ける。

「おい、兵助、思い出させるなよ」
「だってそうでもしないと、勘ちゃん、離れそうにないし」
「逃げるなよ、鉢屋。逃げたら、楽々亭のスペシャルチャーハンラーメンセットだから」

勘ちゃんが挙げたのは、この辺りでも有名なビッグメニューだった。五人前とも言われるそれを、勘ちゃんはぺろりと平らげてしまう、ブラックホールな胃袋の持ち主なのだ。もちろん量が多いということは、値段も高いってわけで。舌打ちをした三郎は「わーってるし」とぶつりと呟いた。

「ほら、はやくお参りして、僕らも買いに行こうよ」

まだ羨ましげにおしるこを眺めている勘ちゃんに雷蔵が声を掛ければ、ようやく勘ちゃんはその場から離れた。参道には他にも甘酒を売っていたり、綿あめや焼きそば、ラーメンにうどん、フランクフルトにベビーカステラ、くじやわなげまであって、お祭りみたいな雰囲気だ。もう参った後なのかその前なのかは分からないが、初詣客があっちこっちの店の前で足を止めている。いつもなら静かな夜も、今日ばかりは賑やかだ。

「ハチは何、買うんだ?」
「俺? ラーメンかな。温かいもの食いてぇ」

ちょうど少し前方に見えた屋台の暖簾の文字に、そう答える。ちらり、と兵助は俺に視線を投げかけ、それから「あー、その格好だしな」と納得したかのように頷いた。どれだけ頑張ったって、ダウンジャケットの隙間から冷たい風は入り込んでくるし、むき出しになっている顔や手の感覚は麻痺している。ぶるり、と震える体は温かいものを欲していて、できることなら、このまま屋台に駈込んで、温かいラーメンをいっぱい啜りたいどころだ。通り過ぎるときに、つい、足を止めてしまえば、

「ま、じゃぁ、お参りが終わった後な」

という言葉が返ってきた。俺が寒いと知っているのだから「寄って行くか?」という言葉が兵助の口から出ないだろうかと期待したが、俺の願いは、あっさりと絶たれた。一応「先に寄らねぇ?」と聞いてみれば、はぁ、と溜息を吐かれる。常識外れです、と言わんばかりの彼の面持ちに「後にします」と引き下がった。仕方なく、悴んだ手をポケットに突っ込み、先を歩く三人の背中を追いかける。

「そっこーで終わらせようぜ」
「罰当たりなこと言わない方がいいぞ」
「だってよー。寒ぃし」

そんな会話をしながら、足早に歩けば、すぐに三人に追いついた。そのまま、横からはみ出した砂利が転がってる石畳の参道を、だらだらと進む。と、不意に隣を歩いていた兵助の足が止まった。何だろう、と彼の視線の先を辿ろうとして、けど、先に雷蔵が気づいた。

「甘酒かーおいしそうだね。飲む?」
「飲む」
「あ、いいね。俺も飲みたい」

さっきまで、常識外れですって言うような勢いだったのに、あっさり掌を返した雷蔵と兵助に、えぇっ、と呆気に取られていると雷蔵が「ハチと三郎は?」と振り返った。気になったのは俺だけなんだろうか、三郎はごくごく普通に「あ、いい。ああいうの、ちょっと苦手だ」と受け答えしていて。言葉が出てこない俺は、ぽかん、と口を空けていることしかできなくて。

「ハチも駄目だったよな。すみません、甘酒、三つ」

代わりに答える兵助を俺はただただ見送ることしかできなかった。と、どこかで歓声が沸き上がる。何だ、と思えば、三郎が「あー、年が明けたな」と取り出した携帯を俺の方に見せた。何か、改めてこいつに新年の挨拶をするもの、こっ恥ずかしくて「そーだな」なんて、適当に答えていると、紙コップに甘酒を注いでもらった三人が戻ってきた。雷蔵がちらりと三郎の携帯を見て「もしかして、もう年越しちゃった? みたいだね」と自己完結し、それから口を開いた。

「あけまして、おめでとう」
「今年もよろしく」
「今年っていうか、まぁ、ずっとな気がするけど」

兵助に続いて勘ちゃんがそんなことを言えば三郎が「嫌な気ぃだな」と混ぜ返したけど、その口元は笑っていた。それを聞いて楽しい気持ちになった俺は、四人に告げる。

「じゃぁ、ずっとずっとよろしくな」

***

「賽銭賽銭、っと」

甘酒を飲み終えた三人が俺のためにラーメンの屋台に戻ってくれる、ってこともなく、そのまま俺たちは神社の中へと入った。それなりにできている列の最後尾に並び、待つ。拝殿が近づいてきて、尻ポケットに突っ込んだ財布から俺は迷った末に百円玉を出した。夏祭りの時とかは十円しか入れねぇんだけど、正月だし、と、大奮発することにする。ひんやりとした銀色のそれを投げ入れようか、としたとき、ふ、と隣にいた勘ちゃんが、がま口を覗き込んでいるのに気づいた。

「どうしたんだ?」

まさかお金を忘れてきたんじゃないだろうな、と思いながら声を掛ける。どこで買ったのか、って聞きたくなるような(まぁ、おそらく彼のバイト先である東南アジアとかのものを売っている店なんだろうけど)、ど派手な色彩のがま口に指を突っ込んでいた勘ちゃんは、「五円玉、あと一枚ないかな、と思って」と、一度、手をがま口から離すと、握りしめていた掌を俺の方に開いて見せた。そこにあるのは大量の五円玉。

「何だ、そりゃ」

五円玉一掃処分、とでもいうかのような五円玉の山。こんなに賽銭に入れるんだろうか、と、つい、素っ頓狂な声を上げてしまっていた。驚いた俺が不思議、と言わんばかりに勘ちゃんは俺の方を見遣って、「何、って五円玉だけど」と言ってきた。

「それは見たら分かるけど、それ、全部入れるのか?」
「うん。じゃないと、意味ないし」

意味がないってどういうことだ、と思いつつ、もう一つの疑問を先に口にする。

「いったい何枚あるんだ?」
「八枚。だからあと一枚いるんだけど」
「五円玉、九枚も入れるのか? 何で?」

当の勘ちゃんではなく雷蔵が「あ、僕知ってる」と声を上げた。顔をそっちに向ければ、「五円って、ごえんがありますように、って意味なんだよね」と雷蔵は勘ちゃんに話しかけた。そうそう、と勘ちゃんは頷いたが、俺にはちっともさっぱり分からねぇ。

(ごえん? 五円がありますように?)

いったいどういう意味なんだろうか、と思っていると、それが顔に出てたんだろう。

「ハチ、ご縁だよ。縁」

と、兵助が空中に指で『縁』という字を書いてくれた。5円。ご縁。なるほど。ようやく音と言葉と意味が合致して、「あぁ」と声を上げる。「五円とご縁を掛けてるのか」と感歎を漏らせば、それまで俺たちのやり取りを見ていた三郎が口を開いた。

「五円玉一枚で『ご縁がありますように』。三枚で『十分、ご縁がありますように』ってな」
「何で三枚だとそうなるんだ?」
「五円が三枚でいくらだ、ハチ」

五円が三枚。頭の中で描きながら、「五円かける三だから十五円だろ?」と答える。けど、まだ、ピンとこない。それがどう関係があるんだろうか、と思っていれば、俺が聞けば三郎は理解が悪いな、って顔をした。それでもちゃんと最後まで面倒みてくれようとしているようで。

「十五円を分けると?」
「分ける? 十円と五円?」
「そう。だから、じゅーぶんにご縁がありますように、って言うんだよ」

そう言うと三郎は「まぁ、こじつけだけどな」と皮肉めいたように付け足した。それに対して雷蔵がおっとりと「でも、おもしろい考え方だよね」と笑い、それから「三郎もそういいつつ、いつも五円玉入れてるでしょ」と突っ込んだ。慌てて三郎が「雷蔵」と咎めたけど、時すでに遅し。そうやって言われれば、いつも三郎は賽銭に五円玉を選んでた気がする。てっきり、ケチというか、神様なんて信じてないから、そんな金額なのかと思ってたけど、

「お前ら、笑うな」

そっぽを向いた三郎の耳は暗がりでよく分からねぇけど、真っ赤になってるように見えた。ひぃひぃ、と喉を震わせて笑っている勘ちゃんに「笑いすぎ」と注意する兵助の口元も緩んでいて。ただひとり暴露した雷蔵だけが「え、だって本当のことでしょ」とのほほんと佇んでいる。当然、俺も堪えようとしても堪えきれるものじゃなくて笑っていると、三郎にどつかれた。

「って」
「笑ってるお前が悪い」

ふん、と鼻を鳴らした三郎は、賽銭箱の方に向かって小銭を投げ入れた。一応、目を凝らしたけれど、五円玉かどうかまでは、分からなかったけど。ぶら下がっている鈴みたいなのを鳴らし出した三郎に、慌てて俺も握りしめていた百円を賽銭箱に入れようとして、せっかくだし、と財布をもう一度取り出した。

(どうせなら、俺も五円玉にするか)

小銭入れとなっている部分を見遣れば、淡い金色の小銭が見つかった。まだ、がま口を覗き込んでいる勘ちゃんに「ほい」と手渡す。びっくりしつつつも「いいの?」と受け取る勘ちゃんに「おぅ。ちょうど二枚あったから。来年までに返してくれたらいいし」と返せば、「来年、ってまた、気が長いな」と笑われた。そう言われて、もう年が明けてしまったことを思い出した。けど、訂正するのも面倒で「あー、まぁ、待ってる」と言っておく。それから話を変えた。

「ってかさ、九枚にも意味があるわけ?」
「あるよ。五円玉九枚で何円?」
「え、四十五円?」

勘ちゃんは五円玉九枚--------四十五円分を、賽銭箱に向けて投げた。枠にぶつかったり小銭同士で当たったのか、甲高い音が辺りに響き、そして収まる。全部、中に入ったのを確かめた勘ちゃんは、ゆっくりと「よんじゅうごえん、じゃなくて、しじゅーごえん」と一字一字を伸ばしながら言った。俺が「しじゅうごえん?」と聞けば、勘ちゃんは「始終ご縁」と『始終』を空書きし、「つまり、初めから終わりまで縁がありますようにってこと」と続けた。

(へぇ、すげぇな。始終ご縁、か)

感動していると、勘ちゃんは朗らかに笑った。

「ま、神様はともかくさ、みんなと始終ご縁があればいいよね」

***


「さてと、お参りも終わったし、どうする?」
「とりあえず帰るか?」
「そうだな。ここにいても寒いし」

前を歩く雷蔵と兵助、それに三郎がそんな会話をしていたけど、帰る、と言っても、二人が差しているのは自分らが住んでいるアパートじゃなくて、きっと俺のアパートのことなんだろう。どうせ、このまま、朝までゲーム大会になるだろう、そう思い「うち来るなら、コンビニ寄って帰ろうぜ」と足を大通りの方に向けた。あからさまに「コンビニ、って遠回りじゃねぇか」と嫌がる三郎に「菓子も飲み物もねぇぞ」と告げれば、渋々といった表情で付いてきた。

「どうせ来るって分かってたんだったらよー、もっと買い込んでおけって」
「はぁ、お前らが全部消費したのが悪いんだろ」
「まぁ、そうだな」
「ごめんね」

俺が三郎に噛みつけば、冷静に兵助に返され、雷蔵に謝られた。どうせ今年もこの調子かよ、なんて、いつものノリの中にいて、ふ、と何かが足りないような気がして。違和感に、あれ?と振りかえれば、そこには勘ちゃんが佇んでいた。同じように振り向いた兵助が「勘ちゃん?」と訊ねると、彼は突拍子もないことを言い出した。

「あのさぁ、海、行かない?」

さすがにこの勘ちゃんの言葉にはみんなビックリしたようで、「「「「海!?」」」」と俺も含めて誰もが素っ頓狂な声を上げた。すぐに「何で、また、このクソ寒いときに」と三郎が突っ込む。そりゃまぁ、そうだろう。俺だって同じこと思った。あの後、ラーメンは食えたけど、やっぱりそれで暖まるのは限界があって、今すぐこたつにインしたいくらいだ。

「えー、だってさぁ、見たくない? みんなで初日の出」

にっこりと笑う勘ちゃんにすぐさま雷蔵が「いいね、楽しそう」と乗っかった。兵助が「そういえば、去年もその前の年も曇ってて見れなかったしな」と応じた。こうなれば、残りは俺と三郎なわけで、勘ちゃんが俺らの方をちらりと視線を送ってくるのが分かった。屈指の寒がりである三郎は行きたくないのだろう。表情からしてありありと見て取れた。最後の砦なだけに(さすがに一人で反対する気にはなれない)、心の中で、がんばれーがんばってくれーと、エールを送る。

「な、行こっ」
「お前ら、私の車が目当てだろ」
「ピンポー「じゃなくて、せっかくだし、ね」

行きたくない気持ちの方が強いんだろう、なかなか首を縦に振らない三郎に、雷蔵が「行かないならいいよ。車さえ貸してくれれば、僕、運転するし」と言った。すると、慌てて、「や、それだけは止めてくれ。私の胃がもたない」と三郎が手を振りかぶって否定した。

「えー、なんで、大丈夫だし」
「頼むから、それだけは止めてくれ」

それだけ三郎が焦るのは分かる。一度、雷蔵の運転に付き合ったことがあるが、マジ怖かった。いきなりアクセルを踏んで急発進したかと思えば、ウィンカーを出し忘れての車線変更。思いっきり走行車線を飛ばして、急停車。壊滅的な運転に、よく生きて帰ってこれたな、ってのが降りたときの実感だったのだから。

「じゃぁ、三郎、行ってくれる?」

その言葉に観念したのだろう、ぐったりとした様子で「あぁ」と三郎は頷いた。それから俺の方を見遣って「交代で運転な」と決定事項のように告げた。俺が「はぁ」っと批難を上げれば「お前ここからどれくらいと思ってるんだよ」と、どやされる。

(まぁ、確かに、ここから日の出が見れるような海となれば、結構、遠いけどな)

しかも、雷蔵はさっき言ったとおりだし、勘ちゃんは原付は乗り回してるけど車の方はペーパードライバーだし、兵助に至っては免許を持ってない。(いっつも、俺が運転する車の横に座るから必要がないんだろう)そうなると、必然的に運転するのは俺か三郎なわけで。

「とりあえず、コンビニに車、回してくるから」

俺が文句を言う前に三郎は踵を返してヤツの家の方向へと歩き出した。数メートル歩くと、「おい、勘右衛門、お前も行くぞ」と不機嫌そうな面持ちで振り向く。

「えぇ、何で俺?」
「言い出しっぺだろうが」

再び「えぇ」と文句を言いながらも、勘ちゃんが追っかける。兵助が「あ、何か、買っておくものある?」と二人の背中に声を掛ければ、何やら三郎が呟いたのか、肩が揺れるのが分かった。勘ちゃんが三郎の方を一度だけ見、それから振り向いて「コーヒーとチュッパチャップスだって」と伝言してくれる。

「分かった。勘ちゃんは?」
「カラムーチョとココアとあ、でもコンポタもお願い。それから、じゃがりことポッキーとプリン」

(何だその組み合わせ、ってか、どんだけ食べるんだ)

 そう突っ込みたくなるような内容だったが、さらに勘ちゃんが「あとはー」と言いだし、まだあるのかよ、と俺は思ったが、雷蔵は違ったらしい。

「あとは?」
「えーっとんーっと、いいや、あとは任せた」
「分かったー」

迷っている内に先に進んだ三郎を勘ちゃんが追いかけていくのを見遣り、俺たちもコンビニに向かうことにした。

***

「ハチ、ポテチとポッキーとどっちがいい?」

どうせなら遠出しよう、という話の流れになって、車は高速を走っていた。時間が時間なせいか、道は結構空いている。それでも、いつもの時間帯よりは交通量は多いはずだし、何より4人が乗っているんだから、と慎重を期して左側の車線を、法定速度を守るようにして俺はアクセルを踏んでいた。

「え、ポテチ」

どっちかといえば今は塩辛いものを食べたい気分で、隣に座っている兵助にそう答えれば三郎に「お前、車、汚すなよ」と背後から突っ込まれた。三郎の車は、なんというか三郎らしく、いつ乗っても新車だろってくらいに綺麗だ。外観の傷がないのはもちろん、中もきちんと掃除がされていて、香水のようなリフレの匂いがするくらいだ。これで、足下にポテトチップスを零そうものなら叩かれそうだ、と「じゃぁ、ポッキーでいい」と思い直す。

「はい、兵助」
「ん、ありがとう。はい、ハチ」

雷蔵から兵助経由でポッキーの袋が回ってきたけれど、ちょうど車がカーブに差し掛かったところで受け取ることができねぇ。視線を移すのも怖くて、前を向いたまま兵助に「ちょっと待って」と断りを入れる。どうにかカーブをやり過ごし、直線に入ったところで「サンキュー」ともらおうとすれば、顔面ににょきっと影が伸びた。

「へ?」
「片手、放すと危ないから」

ここから食べろ、とずいと差し出されたポッキーに驚きつつ、食らいつく。と、後ろから「優しいなぁ、兵助は」とからいが飛んできた。けど三郎の言葉に応じる為だろうか振り向いた兵助は「ちょ、雷蔵」と焦ったもので。何だ、とバックミラーを確かめれば、口に大量のポッキーが銜えられていた。まるで麺類が啜り上げられるように(一時流行ったじゃがりこのCMみたいな食べ方って言えば分かるだろうか)、それが口の中に消えていって。まるでホラーを見ているようだ、と呆然とミラー越しに眺めてると「ハチ、前」と兵助に怒られる。悪い、と謝ったけど、しばらく頭から離れなさそうだ。

「そういや、勘ちゃんは? さっきから静かだけど」

ふ、と思い出したように口にした兵助に、そういえば全然勘ちゃんの声を聞いていないことを思い出した。乗ってしばらくははしゃいでいたはずなのに、と思っていると、「寝てるみたい」と雷蔵が笑いを含めている。バックミラーでは場所の関係からかその姿は見れないけれど、どうやら本当に寝ているようで、三郎が「ったく。お前が行きたいって言ったんだろうが」と文句を零した。

「まぁ、着いたら起こしてあげるから、三郎も寝たら」

帰りは三郎の運転なんでしょ、と雷蔵が宥めているのを、俺は「ん?」と聞き留めていた。少なくとも俺は途中で交代しながら運転するつもりだったのだが、コンビニに車で戻ってきた三郎に、さも当然とばかりに「お前が運転な」と車のキーを押しつけられたのだ。先に三郎に乗り込まれては空いてるのが運転席しかなくて。

(騙された、と思いながらそこに乗り込んだんだけど、違うのか?)

そんな疑問に「帰りも俺かと思ってた」と後ろに言葉を投げかければ「お前、帰りだと確実に寝るだろ」と三郎のぶっきらぼうな言葉が戻ってきた。そりゃまぁ、かなりバイトで疲れてて、帰宅した直後は眠たくて眠たくて仕方ねぇって感じだったし、初詣のために寒ぃ外に出たから今でこそ目は冴えているものの、正直、帰りの運転は辛いなと思っていた。

「まぁ、寝てもいいなら寝たい」
「だから、お前が行きで私が帰りの運転なんだよ」

三郎は『だから』と言ったが、何が『だから』なのか、さっぱり分からねぇ。すると、雷蔵が「行きの方がみんな起きてるからね」とくすくすと笑いを堪えるようにして言った。だが、やっぱり意味不明で。それは俺だけでなく兵助も同じようだったようで、「どういうことだ?」と兵助が後ろを向いた。すると「話をしながら行ったらお前も眠たくならないってことだ」と三郎が答えた。

「帰りはみんな寝ちゃうけど、行きは起きてるから淋しくないだろ、って三郎が」
「雷蔵っ!」

あわてふためいた三郎が雷蔵の言葉を遮ったのを見て、じっくりと考え、俺はようやく二人が喋っていたことの意味を理解した。どうやら、帰りは俺が運転せずに寝てってもいいように、と三郎が考えたことなのだろう。バックミラー越しに三郎に視線を投げた。

「んだよ」

素直じゃねぇっていうか、なんていうか、笑いが止まらない。そのまま「や、別に」と言ったら、「ムカツク。お前、帰りも運転してけ」と後ろから、ガン、と席を蹴られる。

「っぶねー」
「まぁ、いいじゃない、ね」

賑やかな笑いの中で勘ちゃんが起きるような気配はみじんもなかった。

***

「あれ、雷蔵も寝ちゃった?」
「みたいだな」

 からかったつもりはないのだが、三郎は「私は帰り運転だからな」と一人ヒートアップしてふて寝してしまい、残された三人で話をしながら運転していたのだが、そのうち、雷蔵の返事も曖昧になっていって、いつしか返ってこなくなった。バックミラーで確認すれば、どうやら雷蔵も寝てしまったらしい。

「兵助も眠たかったら、寝ていいぞ」
「ん、大丈夫……悪いな」

 何が、と視線だけを一瞬、兵助の方に向ける。高速を降りれば、ずいぶんと、車の数が減った。朝が来るのだろうか、と思うくらいに辺りは暗い。それでも、兵助側の空の端の方はやや闇が薄まって藍色が下の方に溜まっているような気がする。

「いつも運転してもらって」
「気にすんなって。運転、嫌いじゃねぇし」
「ならいいけど。俺も免許、取ろうかな」
「どうしたんだ急に」

 今まで興味がなさそうにしていただけに、ちょっとびっくりしてしまって、運転中だと分かっていたけど、思わず兵助の顔を見てしまった。すぐに「ハチ、前」と怒られ、顔を前方に映した。

「俺も運転交代できたら、もっと遠出できるだろ」
「じゃぁさ、今年の夏、泊まりでどっかでかけようか」
「泊まりで?」
「そう、海でもいいし。今度は泳ぎにさ。それか、どっかの遊園地とかに行くのでもいいし」
「あー、山でキャンプとか?」
「野音とかフェス系の近くまで行くとかな」
「お、それすげぇ楽しそう」

 来たばかりの『今年』が楽しみでしかたなかった。

***

「起きろ、着いたぞ」

 海に着いたのは、もうずいぶんと辺りが明るくなってきた頃だった。白っぽい光が水平線の方に溜まっていて、そこから夜のグラデーションが帯をなしている。俺たちが来た西の空は、まだ闇の名残が広がっていた。

「海だぞ、海」

 後ろで眠りこけている三人に向かって喚けば、ぱ、っと勘ちゃんの目が開いた。「え、着いたの?」と飛び起きる勘ちゃんはバネ仕掛けの人形みたいで、さっきまで寝ていたのが嘘のようだった。

「すごいな、本当に海だ」

 窓越しに海を見た勘ちゃんが感動のあまり大声を出していた。それに起こされたのだろう、「へ、海? もう着いたの?」と目を擦りながら雷蔵がむくり、と体を起こして。海を目の当たりにしたのだろう、雷蔵もまた「わぁ」と歓喜の声を上げた。それから、まだ隣でもそもそとしている三郎を起こそうとする。

「三郎、三郎っ」

 それでも顔が見えないように体を丸めている三郎は「んー」と生返事ばかりで、なかなか、起き出そうとしない。何度か雷蔵が声を掛け、揺さぶってみたけれど変わらなくて。業を煮やした勘ちゃんが「鉢屋、置いていくぞ」と耳元で叫んで、ようやく三郎は頑なに瞑っていた目を開いた。

***

「寒っ」

 車から出た瞬間、斬りつける風の冷たさに、ぎゅっと体が縮こまった。ダウンジャケットを抱きかかえるように、手を組みながら堤防あったコンクリの階段を使って砂浜へと降りていく。

「っと」

 こけそうになる体を立て直し、先に行く四人を追う。先頭を切ってるのが勘ちゃんだから、波打ち際まで行くつもりなのだろう。辺りを見渡せば、他にも初日の出を見ようとしている人たちの姿がちらほらとあった。その人たちとは、少しだけ離れて海岸線に並ぶ。寒いのだろう、うぅ、とずっと唸っている三郎。それを見て笑っている雷蔵。勘ちゃんは、ずっと海ばかりを見て、そわそわしている。兵助は瞬きせずに水平線の彼方を眺めていた。

「あ」

 誰が言葉を漏らしたのだろう。すぅ、と音もなく現れた光。初日の出。燃え立つような赤。-------きっと、一生、忘れねぇ。こいつらと見た、この太陽を。

***

「さて帰るか」

 昇りきった太陽に、三郎がそう言った。それを機に車に戻ろうと振り返れば、そこにあったのは、砂浜にあったのは、できたばかりの足跡が、十個。俺と兵助と勘ちゃんと雷蔵と三郎のそれ。重なったり、離れたり、また近づいて重なったり。それは、何だか、俺たちのこれまでであり、そして、これからのような気がした。



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みなさま、よいお年を!



Happy New Year