カンカンカンと甲高い音が破裂し、校内の静けさを打ち破る。はっと、顔を上げると、自然と、さわるな、と赤字で書かれた札の掛けられたパイプに目がいく。壁に設えられた小さな暖房の吹き出し口から温風が出ていることを感じれないけれど。ぼんやりと曇った窓ガラスが、外よりは温かいことを示していた。 (これで全館に暖房がいってる、って言ってたっけ) つぅぅ、と窓を伝う水滴の向こうに広がる、木の葉を落とした枯木立から視線を室内に戻す。古ぼけたソファに身を沈め目を閉じている三郎の元から響く重低音はゆったりとしたリズムを刻んでいる。対面にある硬そうな木の長椅子に腰かけた兵助の手には分厚い本があり、時折、思い出したようにページをめくっていた。 (僕も、バイトの予習でもしようかなぁ) 足もとに置いておいた鞄を引きよせ、中からペンケースとノート、それからテキストを取り出す。もうすぐテストって言ってたっけ、と思いながら今日の範囲のページを開ける。シャープペンの頭を2回押すと、最初の数式を見遣った。温かいミルクティのような、穏やかで優しい時間が流れていく------。 *** 「あーなんで大学はこんな時期から春休みなんだ」 古ぼけた扉が勢いよく音を立てたと同時に飛び込んできた大声が、それまでの雰囲気をぶち壊した。しん、と凍てついた廊下の空気が入り込み、拡散していって。足元を上ってきた冷気に、思わず身震いを覚えながらドアの方を見れば憤怒の形相をしたハチがいて。その後ろから「やほー」とのんびりした口調の勘ちゃんも入ってきた。 「寒い」 迷惑そうに見開いた目をハチの方に向けながら、三郎は耳からイヤホンを外した。すると、そこから聞いたことのない言語が、柔らかな調べと共に漂ってきた。どことなく艶のある女性の歌声が部屋を満たしていく。 「校内に人っ子一人いないぞ」 僕たちの意に介することなく、冷たさが凍み入った頬を赤くさせたハチが、マフラーを外してそう告げた。春休みなのだから人がいないのは当然のことなのに、とハチの言いたいことが分からなくて。それまで没頭していた本から顔を上げた兵助と、思わず顔を見合わせる。勘ちゃんはといえば、まったく、ハチの言葉を無視して「あ、この曲、ケイトラズビーか」と嬉しそうに呟いた。 「そりゃ、春休みだからでしょ?」 「そうそう。さっき自分で言っていたじゃないか」 兵助が呆れたように言うと、ハチはマフラーをがちっと握りしめながら力んで叫んだ。 「お前ら空しいと思わないのか?」 あまりの剣幕に僕は押されて、ついつい、「何が?」と問い返す。反応が嬉しかったのか、ハチは僕の方に向かって来て。悩ましげにため息をひとつ、つく。 「高校なら、学校を休まなきゃクラスの子や後輩からもらえたのに」 「あぁ、バレンタインのチョコの話か」 そう言うと、たいして興味がないとでもいうように、兵助は再び本に視線を転じた。ふ、と気がつけば、さっきまで聞こえていた音色がいつの間にかベースの振動に戻っていて。振り返ると、ハチの話の相手をする気なんてないようで、首にぶら下げていたイヤホンを三郎は耳に装着していた。勘ちゃんだけは、のほほんと微笑みながら「そうだねー」と相槌を打ちつつ、「でも、ハチって義理チョコばっかじゃなかった?」なんてさらりと容赦のない言葉を放った。けど、都合の悪いことは聞こえない耳なのか、 「だいたい個人の机がないしよ。ロッカーも研究室の中じゃこっそり入れれないし」 ハチは僕に向かって力説していて。身振り手振りで伝えようとする熱意に、とりあえず、「うん、そうだね」と答えておく。そんな僕に呆れた表情をちらりと見せた三郎を僕が軽く睨むと、すい、と目を逸らされた。 「けどさ、それは僕たち、みんな同じだからさ」 「じゃぁ、皆0個だな? チョコレート」 安堵したように肩を下ろしたハチに向かって、不意に三郎が意地悪な笑みを投げる。 「悪いがハチ、私と兵助は貰ったぞ」 「えっ、いつ? どこで? 誰に?」 まるで英語の構文のような言葉を返すハチの混乱ぶりに、三郎の口元が一層緩んだ。それまで全然興味のなさそうだった兵助が背に付いていた紐を栞にして本を閉じると、傍らに置いてあったコートのポケットを漁りだした。何が出てくるんだろう、と見つめていると黒と金色の小さなパッケージだ出てきた。 「って、ブラックサンダーかよ」 「ハチだって好きだろ?」 「そりゃそうだけどさ、そんなのありかよ」 「けど、チョコはチョコだろ」 「そうなのか?いやでも、小さいぞ。けどチョコはチョコか」とぶつくさ呟いてるハチの代わりに、勘ちゃんが尋ねた。 「これ、どうしたの?」 「さっき、生協に飯を買いに行ったら、京子さんがくれた」 「マジで!? …って、京子さんって誰?」 すごい勢いで名前に食らいついたハチに、兵助が苦笑いを浮かべながら答える。 「レジのおばちゃん」 「レジのおばちゃんって、おまけじゃねぇの」 「ちゃんとバレンタインのだって。『鉢屋くんと久々知くんに特別に』ってもらったし」 「お前ら、名前、覚えてもらってるのか?」 ハチの疑問に、「当然。もてるからなー」と口角を上げて三郎が答えた。そんな言葉に、はぁぁぁ、と、どんよりとした弱々しい息がハチから洩れた。まるで、ストーブの前のアイスクリームみたいに、今にも溶けて崩れていきそうだった。どう慰めようか、と思案すれば勘ちゃんが口を開いた。 「そんなに、チョコほしい?」 「男のロマンだろ。ロマン。鞄いっぱいに詰まったチョコ」 「そうかな? あんまりもらうとしばらくチョコいらなくなるけどね」 「っ、何、そのもてます発言」 「だって本当のことだし」 勘ちゃんの発言にうぅ、と胸を押さえてハチはうずくまった。「竹谷二等兵、」なんてわけのわからないことを口走り出す。三郎は相変わらずにやにやと笑ってるし、兵助は我関せず、って感じで、「ちょ、ハチ?」とハチの下に駆け寄ったのは僕だけだった。 「はぁ、結局、一つも貰えないのは俺だけか」 もうでろでろになってるハチを「僕も貰ってないから、さ」と慰めれば、「おぉ同士よ」とハチは、握手、と言わんばかりに僕の腕を握りしめてきた。 「そんな気にしなくてもいいんじゃない?もともと、お菓子会社が考え出したイベントなんだしさ」 「だよな、だよなっ! これは陰謀だよなっ!」 興奮したハチの大声に、耳が割れそうだ。そんな僕に気づく様子もなく、ハチは掴んでいた手を力に任せるままに、ぶんぶんと振り回しだした。もがれてしまいそうな勢いに「ちょっと落ち着いてよ」というけど、全然言葉が届いていないようで。 (まぁ、これでハチが元気になるなら、いっか) と、諦めていたら、三郎が水を差した。 「けど、雷蔵は一個は確実にもらうぞ」 「何で?」 ぐにゃり、とハチの手から力が抜けたかと思うと、ぱたり、と僕の腕が落ちた。 「今日、カテキョの日だから。中二、女の子」 三郎のからかう声音に、「そりゃ貰うなぁ」と兵助がまじめな顔のまま同調する。勘ちゃんは「いいなぁ、きっと手作りだね」と目じりを緩ませた。ハチは、愕然として、ぐたり、とその場に膝から崩れ落ちた。四人四様の僕を見る目つきに、かっ、と体の中から熱が湧いてきて。首筋から顔まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。 「俺、今から生協行ってくる」 しばらく呆然としていたハチが唐突に立ち上がった。 「はぁ?」 「もしかしたら、京子さんから貰えるかもしれないだろ」 「ないない」 「何でだよ?」 「春休み期間中は、生協、昼休みしか開いてないから」 全てはお菓子会社の 陰謀から始まった。
(「誰かー俺にチョコをくれっ!」「じゃぁ、このブラックサンダーやるよ」)
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