「あー、腹減った」
「もうちょっとの我慢だから。ほら、さっさとやったやった」

そう勘ちゃんに言われて、俺は視線をテーブルの問題集に無理矢理目を向ける。俺はどういう訳か、スタジオで(いや、正確に言えば控え室なんだけど)、歌を歌うことなく数学の問題集に明け暮れていた。どういう訳もこういうわけもねぇけど。合格をもらえねぇまま夏休みに突入。八月上旬に控える追々試験に受からなければ、俺の夏休みは終了だった。仕方ねぇ、と延々と連なる数字と記号とで格闘する。Xがどうのこうの、Yがどうのこうの……こんなの、ちっとも面白くねぇ、ってか、訳わかんねぇ。さっきから、五回くらいやり直してるってのに、ちっとも答えが合わねぇのだ。

「ハチ、分かってる? 今度の追々試で落ちたら、補習が待ってるんだよ?」
「分かってるって、分かってるけどさー」

早く歌いてぇ。そう叫ぶ体に、シャーペンを投げだそうとした瞬間、ふわり、と綺麗な指が問題集を叩いた。「どこが分からないの?」と。一瞬、メロディが聞こえたような気がしたのは、その指の持ち主が譜読みをしていていた雷蔵だったからだろう。神様仏様雷蔵様。祈るつもりで「これ」と問題集を彼の方に寄せる。だが、彼はしばらく眺めると

「僕も数学苦手なんだよねー。兵助とか三郎とかに聞けば確実なんだろうけど」

 と眉をしかめた。そりゃまぁ、学年主席を争う二人に聞けば早いんだろうけど、ちょっと躊躇ってしまう。あー、と言葉を濁せば、雷蔵が不思議そうに首を傾げた。ちら、っと振り返り、視線を送った先、少し離れたところにいる兵助は、何やら音楽を聴いているようでヘッドホンを手で押さえつけたまま目を閉じていて。微動だにしてない彼に、聞かれてないだろう、と俺はこっそりと雷蔵に「だって、あの二人、怖いし」と耳打ちした。ぷ、っと吹いた雷蔵は、ツボに入ったのか、腹を抱えだして。あまりの笑いっぷりに「そこまで笑うことねぇじゃん」とつい拗ねたように言ってしまえば「ごめんごめん」と謝られる。

「まぁ、ちょっと取っつきにくい所はあるけど、でも、別に怖くないし、普通だよ。ただ、音楽馬鹿なだけで」

 そうかもしれないけど、と言い返そうとした俺の問題集がふ、と翳った。「誰が音楽馬鹿だって?」兵助だった。「あ、聞こえてた?」と笑い返す雷蔵を越えて、すっと、兵助の指が「ここのX、数字が1じゃなくて9。書き間違いだろ」と俺の汚ぇ字をなぞった。

「へっ!? あ、えぇっ……本当だ」

 単純なことだった。数字の書き間違いだなんて。思わず「まじかよー」と机に突っ伏す。雷蔵が「でも、とりあえず分かってよかったね」と穏やかに宥めてくれてるのは分かってたけど、つい抑えきれず「俺の三十分を返せ」と叫べば、「声、でかすぎ」とぴしゃりと抑えられる。ずっとヘッドホンをして目を瞑っていたから、全然、こっちの話なんて聞いてないかと思ってたのに「追々試に落ちたら、残りの夏休み期間、補習なんだろ」と突っ込まれれば、う、っと言葉に詰まるしかない。

「言い出しっぺのお前が、練習に来れないとかないだろ」
「……言い出しっぺは俺じゃなくて勘ちゃんだって」

 分が悪くなって誤魔化せば兵助は「そうなのか?」と驚いたように目を瞠らせた。そんなびっくりすることか、と一瞬思った。だが、よくよく考えれば兵助は俺から声を掛けたのだから、彼がそう思っていても不思議じゃねぇな、と考え直していると、

「まぁね。でも、結構、あれ半分冗談だったんだけど」
「え!?」

爆弾発言をかました勘ちゃんは「や、ハチなら乗ってくれるかなーって軽い感じったんだけどさ」とそこまで言って、一瞬だけ、遠くに目を遣った。思いに馳せるように。それから、

「でも、今は、ハチに感謝してるよ。やっぱ、バンド組んで正解だった。この五人でやれてよかったって思ってる」

 そうきっぱりと言い切った勘ちゃんの真っ直ぐさに、おぅ、って答える前に、どこか冗談めいて「だから、追々試で落ちないでよ」と付け足してきたもんだから「だったら、助けてくれよ」と縋り付いていると、

「自分でやらないと意味ねぇだろ」

 と、頭上から声が降ってきた。あちぃ、と文句を垂れた三郎の手でがさごそと揺れるビニール袋。黄色と赤の独特のロゴを見るよりも先に、その匂いで分かる。もとから減っていた腹が、騒ぎ出した。白い袋の中からがさごそと出された油染みのある紙袋がどんどんテーブルに積まれていき、慌てて俺は問題集を下げた。すごい量だな、と感心する兵助に三郎が吠える。

「つーか、お前ら、誰か着いてこいよ。この量、持って帰るの、すげぇ大変だったんですけどー」
「でも、じゃんけんでって言ったの、三郎でしょ」

 雷蔵にそう突っ込まれた三郎は反論できなかったんだろう、代わりに「ん」と掌を俺に突き出した。反射的に「何?」と聞いたら「五百円」と不機嫌そうに単語だけを呟いた。勘ちゃんが「奢りじゃないの?」と笑えば「んなわけあるか」とどやす三郎に俺はポケットにあった財布から硬貨を取り出し「はい、五百万円」と叩くように渡せば「古っ」と兵助に笑われた。

「いただきまーす」

 嬉しそうな雷蔵に続いて、俺も紙袋を開ける。独特の匂いがスタジオの控え室に広がった。一応、壁にある貼り紙によれば飲食は禁止だが、まぁ、黄ばんでべろりと剥がれているそれからも分かるように、あまり守られていない。絶対に、その脂ぎった指で楽器を触ったりすることは絶対ぇにねぇけれど。でも、ドアを開ければマックの匂いがする、ってことも結構ある。すぐ近くだし安いからみんな買いに行くんだろう。
 ふ、とそこまで考えて、思う。どうやって勘ちゃんはこのスタジオ代を値切ったんだろう、と。三郎や兵助が出入りしているライブハウス兼スタジオは他の所と比べれば、ずいぶんと安いらしい。だが、いくら安価とはいえ、高校生の分際で出せる金もそうそうあるわけでもなくて。最初は、各々が練習して、何回かスタジオを借りて合わせるって話だったのだが、ほぼ毎日のようにここに入り浸っていた。どんな手を使ったのかは分からねぇが、とりあえず、スタジオのオーナーと勘ちゃんが気が付けば仲良くなってたから、その辺りのコネなんだろうけど、この際だし聞いておくか、と軽いノリで訊ねた。

「なぁ、どうやってスタジオ代、値切ったんだ?」
「あ、それ俺も気になってた」
「私も。あのどケチなオーナーからさぁ」
「え、別に特には。オーナーに『ここからメジャーの、全国、ううん、世界に通じるバンドを育ててみたいって思いませんか?』って言っただけだよ」

 口々に訊ねた三郎と兵助は、ぽかん、とした面を見せて。それから溜息を吐くように「俺、時々、勘ちゃんが怖ろしいよ」と兵助が零せば「ほんとほんと」と相槌を打った。

「えー何が?」

 何でもない、と首を振っ二人に「そう?」と首を傾げた勘ちゃんは不意に俺を見て。「ほら、さっさと食べて続きをやったやった」と追い立てられ、ばくっとハンバーガーを囓る。
二人は勘ちゃんが大口を叩いたって思ってるかもしんねぇけど、でも、勘ちゃんはきっと本気でそう言ったのだろう。----------世界に通じるバンド、か。一瞬、光を見たような気がしたのは、この五人ならやれるんやないか、って思ったからかもしれねぇ。

(って、そのためには文化祭成功させてぇよなぁ)

 となれば、まず自分がやらねぇといけねぇことは、ただ一つ。さっさと問題集の続きをするために、俺は口の中にハンバーガーを押し込んだ。

***

「ということで、男、竹谷八左ヱ門、無事、合格しました!」

 わーよかったね、と拍手してくれたのは雷蔵だけで、兵助は無表情のままベースから顔を上げるだけで、「心配掛けた詫びに、なんかマックで奢れよ」と言ってきた三郎に「三郎だって追試受けてただろ」と文句を上げればば「お前は、追々々々試くれぇで受かったんだろ」と、皮肉を向けられる。すぐさま勘ちゃんから「おしい、追々々試!」と訂正が入る。

「おぃ、ばらすなよ」
「まぁ、いいじゃん。とりあえず、これで練習にも専念できるわけだし」
「そうだけど」

 ぎゃぁぎゃぁと騒ぐ俺と勘ちゃんなど気にすることもなく、ふ、と雷蔵が呟いた。

「そろそろ、曲目とか順番とか決めないとね。つなぎとかの練習もいるし」

 そうだな、と頷いた兵助は「何、やる?」と辺りを見回した。

「やっぱ、文化祭となればロキノン系が多いよねー」
「ロキノンって、エルレとかラッドとか、アジカンとか?」
「エルレの『スターフィッシュ』とかどうよ!」
「王道だな」
「俺も好きだけどさー、何か他の所とかぶるのは嫌だな。どうせなら、他がやらないのがいいなぁ」
「だったら、コールドプレイとかリンキンとかで、ちょっと前のやつとかは? 聞いたことあるけど曲名知らないってくらいのやつなら、そんな被らないんじゃないか?」
「その二つだと、ピアノとかキーボありだしな」
「あ、僕のことは別に気にしなくてもいいよ。元に入ってなくても、適当に音取りするからさ。グリーンデイとか、あとはゼブラヘッドとかも盛り上がると思うし」
「なら『サマーナイト』は? すげぇ盛り上がる」
「ラスカルフラッツかよ。また、一気にマイナーな所にいったな。しかも、夏終わってるし」
「いっそのこと、校歌のロックアレンジ」
「大合唱だな」
「ロックアレンジなら、あれがいい『上を向いて歩こう』」
「口笛吹いて?」
「そうそう。あえてのしんみり系をロックで、みたいな」

 みんな言いたいことだけ言いたい放題、って感じで、中々、まとまらねぇ。けど、すげぇ楽しい。ライブをするんだ、って実感が湧いてきて。もう楽しくて楽しくてたまらねぇ。

「というか、どれくらい時間があるんだ?」

首を捻るようにした勘ちゃんが「一応、一組二十分かな?」と答えれば三郎が「ってことは、四十分はねじ込めるな」と呟く。すぐさま兵助から「いくらなんでも三十分が限度だろ」と突っ込みが入ったが「や、ステージ発表のトリだから、いけるだろ」と三郎がすぐに返した。驚きに兵助の目が大きくなる。

「トリなのか?」
「あ、そっか。兵助には言ってなかったっけ。こいつ、代表委員だからさ、その枠、抑えて貰った」
「すごいな。同じ代表委員のどこぞの誰とは違う」

 兵助に視線を投げられた三郎はわざとらしく「それは私のことか?」とふて腐れた後で「や、けど去年の先輩ら、四十分使ってるから、それで考えたらいいんじゃね?」と話を戻した。心配げな面持ちで雷蔵が「でも、それで三十分とかしか時間取れなかったらどうするの?」と首を傾げた。雷蔵の不安も分からなくもねぇけど、やってみねぇと分からないことだし、と

「まー、やっちゃったもの勝ちってことで」

そうまとめた俺に、雷蔵もあっさりと「そうだね」と頷いた。ふ、と頭で浮かんだメロディを口笛に乗せてる「何だっけ、それ、聞いたことある」と兵助が訊ねてきた。「小さい頃みてたアニメの主題歌」と答えてから、俺が曖昧な記憶を掘り起して、最初の出だしを歌い出せば「あ、すごい懐かしい、それ」と勘ちゃんが目を輝かせた。ふ、と俺の声に、音が重なる。三郎だった。いつの間にかギターをかき鳴らし出していた三郎。そこに軽やかな雷蔵のキーボードのメロディが重なり、さらには兵助のベースによって深みができて。最後に勘ちゃんがリズムを刻む。----------やべぇ、すげぇ心地良い。

「これのロックアレンジとかでもいいんじゃね?」
「この曲だと誰もが聞いたことあって親しみあるしね」
「でも、ロックで格好よく、ノリよくってか」
「いいね! すごく楽しそう!」

 じゃぁ候補ね、と綴った勘ちゃんの文字は俺たちの心を代弁するかのように、踊っていた。


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