フライング・ニューイヤー



薄暗く狭い通路の通り抜け方を、まだ、足が覚えていた。
扉を開けた瞬間、店内に立ち込めた熱気が、もふり、と被さってきて。
煌びやかなライトが注ぐ下で、あちらこちらから談笑が弾けて、賑やかなざわめきが伝わってくる。

----------あぁ、

この場所が変わっていないことに、胸の奥が小さく音を立てる。



自由に飲め、ということだろう、カウンターにはずらりと液体が注がれたグラスがならんでいる。
薄暗い空間の中で、ぼんやりとアンバーに光っているそれに手を伸ばす。
と、不意に隣にいたグループから声を掛けられた。



「おぉ、三郎じゃん」
「え、三郎?」
「本当だ、どこの坊主かと思えば、三郎じゃねぇか」
「久しぶり」

(向こうが知ってるってことは、知り合いだろうな)

目の前にいる人物たちの記憶を浚いつつ、とりあえず、笑みを浮かべておく。
グラスを一気に呷ると、すっかり温くなった液体が喉を滑り落ちて。
ぱちん、と弾けた泡と共に、アルコールの熱が駆け上った。



「うわ、マジで三郎? 全然分かんなかった」
「きゃぁ、男前に成長したね」
「そう?」
「そうそう。前は、どこの女の子って感じだったもんなぁ」
「ひどいなぁ、」

無秩序に紡ぎだされる言葉達に絡まってみたり、解いてみたりしながら、少しずつ潮流から離れていき。
今日はステージがないからだろう、一番奥に追いやられたピアノの傍にに落ち着いた。
うっすらと埃が留まっている表面を、そっと、撫でる。

---------- みんなが、遠い。



耳に届く喧騒はぼんやりとしていて、まるで、皮膜に覆われているみたいに鈍く聞こえる。

(ここは変わってないのに、な)










「あらー三郎じゃないのぉ」

甘く鼻に掛かった声が跳ねあがった。
“彼女”の名を呼ぶ前に、むせ返るような薔薇の香りに包まれる。
太くがっしりとした、それでいて柔らかくしなやかな腕が俺を抱きしめていた。



「久しぶりね。元気にしてたの? ちゃんと食べてる?
 家には帰ってるの? 学校には行ってる? ずっと心配していたのよ」

矢継ぎ早に降り注ぐ質問を頭上で聞きながらも迫ってくる息苦しさに、その腕を軽く叩く。



「で、伝子さん、苦しい」
「あぁ、ごめんなさいねぇ」

ようやく放された体に新鮮な空気が入り、ほぉ、と深く呼吸をひとつ、ふたつ。
きっちり引かれたアイライナー、隙間一つない付け睫毛。
外国のお菓子のような、鮮やかなリップ。

(あの頃と、何一つ、変わってない)



「伝子さんは、相変わらず元気そうですね」
「三郎は少し痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの?」
「食べてますよ」

そう答えると、ぎゅ、っと頬を掴まれて、じぃ、っと目を覗きこまれた。
さっきとは違い、真剣なその眼差しに身じろぐことすらできなくて。
ただ、突っ立って、伝子さんのされるがままになっていた。



「よし」
「伝子さん?」
「ちゃんと、生きてるわね」
「一度も死んでませんって」

意味の分からない言葉にそう突っ込むと、伝子さんは微笑んだ。
幼子に向けるような温かな笑みに、少し照れくささを覚えて。
けれど、顔を掴まえられていては背けることもできない。



「今、すごくいい顔してるわよ」
「え」
「あの頃は、ホント死んでいるような感じだったからね。
 今の三郎の方が、何倍もいい顔してる。誰が変えたのかは分からないけれど」

その言葉に、反射的に浮かんだ友の笑顔。

-------------------雷蔵。それから、ハチと兵助。



「よかったわね」

そう伝子さんは呟くと、摘まんでいた手を放し、返す手でペチリと俺の頬を軽く叩いた。



(…変わったのは、俺の方?)



「伝子ママ、もうすぐカウントダウンだって」

考え込んでいると、新しい子だろうか、少し離れた所で見たことのない店の女の子が呼んでいて。
彼女は、「まぁ、ゆっくりしてきなさいね」と深紅のドレスを翻した。
その真っ直ぐな背中を見送り、店の奥へと歩を進める。










(雷蔵は、今頃、どうしてるだろう)

すとん、と部屋の照明が全て落ち、部屋の中の高揚感が一気にピークを迎える。
絞られた音量の音楽に、ずしん、とベースが刻む震動が闇を包む。
「あと3分」と誰かが告げた。

気がつけばポケットから携帯を取り出し、発信ボタンを押していた。
内耳に響くコール音に、心の中で1回、2回…と数える。
ラインは繋がりそうもなくて。

(やっぱり電話しなければよかった)

空虚さが広がり、後悔が押し寄せてくる。
通話終了ボタンを押そうとした瞬間、途切れたような空隙が落ちた。
幽かなノイズの他には物音ひとつなくて、その静けさに、ラインの向こうに吸い込まれそうな感覚に陥る。



と、「もしもし?」と雷蔵の柔らかな声が入り込んできて、ぎゅ、と張りつめていたものが溶けていく。



「あぁ、雷蔵。明けましておめでとう」
「えぇ、もう?」
「嘘。まだ」
「フライングしすぎ。三郎、お酒飲んでない?」
「飲んでないって。雷蔵は今、何やってるの?」
「今? ばあちゃん達と神社に来てるよ」
「ふーん。寒い?」
「そりゃ、外だからね。三郎の方こそ、賑やかだね」
「あー、まぁ」

その言葉に、少しでも騒々しさから遠ざかろうと右手から左手に持ち替え、より奥に足を進める。
空いた右耳から「あと10秒ー」と伝子さんのよく通った声が入ってきた。
店にいる連中らが声を揃えて、カウントしだす。



「あ、今度こそ本当」
「え」

聞き返してきた雷蔵に、「さん、にい、いち、」と時を数える。



「明けましておめでとう、雷蔵」

その言葉を口にした瞬間、胸の中にあったかいものが広がっていく。
ラインの向こうで、ふ、と耳元で雷蔵が笑ったような気がした。
店内の弾けた声を越えて、優しい彼の声が、降り注ぐ。



「明けましておめでとう、三郎」










(--------------今年も、君とたくさん笑い合えますように。)








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