「最後の晩餐がこれとはな」  「カップ麺そばの何が悪い」



パソコンの電源が落ちるのを背後で確かめ、研究室の扉に手を掛ける。
ぱちり、と小さく走った右手の痛みに、手袋を外せばよかったと一瞬後悔して。
けど、一昨日に、手袋をはめたままでも同じように啄ばまれたような衝撃を受けたことを思い出した。

(やっぱり静電気ガードみたいなの、買おうかなぁ)



寒さの底にあるような薄暗い廊下は暗く誰もいない。
けれど校内には人の気配、というよりも呻き声に象徴される焦りが充満している。
そのまま階段を下りて行こうとして、一番奥にある猫研の (あ、玉木教授の研究室だからタマ研→猫研)
部屋の明かりが点いていることに気が付いた。



なんとなく、足音を忍ばせて、ゆっくりと研究室に近づく。
そっとドア越しに気配に耳を澄ますと、キーボードを叩く音に小さな舌打ちが混じった。
その行為に中にいる人物を察し、手袋を外すとポケットにねじ込み、そのままドアノブを引き開けた。



「おー伊作か」
「あ、やっぱり留さん」

流線状のフォルムが一列に並んでいて、まるで、白い波のようだった。
こまめな性格の人が研究室にいるのだろうか、埃一つない、柔らかな光沢を放っている。
一番手前のパソコンを陣取っていた彼は、眠たそうな表情で重たげに視線を僕の方に向けた。



「どう、終わりそう? 卒論」
「それは聞かないって話だろ」
「ですよねー」

本やら資料やらが散乱していた古ぼけたソファを空けてくれた彼に礼を言い、そこに腰を下ろす。
キャスター付きの椅子からバネ仕掛けのように勢いよく立ちあがった彼は、
そのまま奥に据え付けられたミニキッチンへと向かった。
ミニキッチンといっても、水道と小さなガスコンロと電子レンジ、冷蔵庫、
それからポットとコーヒーメーカーがあるくらいだけれど。



「そういうお前は余裕だな。もう帰るんだろ?」

コーヒーメーカーからグラスポットを外し、雑多に押し込められた食器籠からカップを一つ持ってきた。
ゼミ生以外の人に使うカップなのだろう、妙な模様のそれは、口の縁が欠けている。
それと自前のカップを並べ、彼がグラスポットからコーヒーを注ぐと、煮立ってしまった饐えた匂いが感じた。



「うーん。実は、論文が足りなくてさ、これ以上やっても空論になっちゃうかなって」
「論文って、年末年始は図書館閉まってるだろ」

綺麗に顰められた眉に、『間に合うのか』と聞かれたような気がして。



「ほんと、つくづく自分の不運を呪っちゃうね」

愚痴を零しながら、入れてもらったコーヒーを一気に呷った。
どろり、と貼りつくような熱さが喉元を通り過ぎていって。
痺れるような酸味が口の中に残される。



「まぁ、頑張れ。あーぁ」

パソコンの前の椅子に座っていた彼は、嘆息に似た声を漏らしながら大きく伸びをした。



「どうしたの?」
「俺より完成しなさそうなのがいるのが分かったら、安心して腹が減った」
「何それ。ひどっ……確かに、お腹はすいたけど」
「カップ麺ならあるぞ。食うか?」
「やった」

再びミニキッチンの方に向かう彼に、着こんだコートを脱ぐことにした。
ソファの空いているところにコートを掛けていると、「ん」という彼の声がして。
振り返り、ありがとう、と口にしようとした直前、その赤と紫色のパッケージに目を奪われた。



「って、そば?」
「あぁ。当たり前だろ」
「えー、カップ麺って言ったらさ、ラーメンじゃない?」
「お前さ、今日、何日だと思ってるんだ?」
「あーそうか、大晦日か、」

今更ながら、音量の絞られたテレビにはそこそこ有名な寺が映っていることに気がついた。
もこもこに着込んだ人々の列は途切れることなく、その山門をくぐっていく。
こんな寒いのに、とつい思ってしまう。



「大晦日と言ったら、そばだろ」
「最後の晩餐がこれとはな」
「カップ麺そばの何が悪い」

文句があるなら食うな、って言葉に、慌てて縋りつく。



「食べます。文句は言いません」
「きつねとたぬき、どっちがいい?」
「んーじゃぁ、きつねで」
「ん」



カップ麺を取りに行った時に点火していたのだろう、
ガスコンロの上で沸騰したやかんがしゅんしゅん、と鳴いていた。
立ち上がってやかんを取りに行った彼に、留さんばっかり悪いなぁ、
と、天ぷらと書かれた赤色のカップ麺を手にする。
プラスチックのパッケージを適当に破り、上蓋を半分だけめくり、具材を開ける。



「ほら、湯」
「ありがとう……あ、年が明けた」

カップに注いだ途端水蒸気で煙り、もやもやと曇ったテレビの画面の向こうで、新たな年が始まっていた。



「だな」
「これじゃぁ最後の晩餐じゃなくて、最初の晩餐だね」
「だから文句があるなら、」
「ありません。ホント、お腹がすいて死にそうだから。あ、留さん」
「何だよ」
「あけましておめでとう」
「……おめでとう」










(こうやって笑い合えるのも、あと、ちょっと。だから。)








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