そう遠くない未来、        私はそう思うんだろう。




「先輩、これですか?」

その言葉に振り向くと、緊張しているのか、少し頬を紅潮させた後輩が立っていた。
その小さな手で抱えられた薬包紙を私は受け取った。
やわらかい掌は温かく、傷一つない。

(小さい手だなぁ)



「あ、うん、これこれ」
「乱太郎」
「悪いけど、私、ちょっと手が離せないから、これ、そこの馬鹿に塗ってあげてくれる?」

呻き声に似た私を呼ぶ声を無視して、その代わりに机の上に置いておいた乳鉢を後輩に手渡した。
打ち身の薬効がある薬草を練り合わせたそれは、妙な匂いを醸し出していて。
その匂いに、きりちゃんがしかめ面をする。



「馬鹿って何だよ」
「隣の組と喧嘩した、なんて嘘を吐いて保健室に来る誰かさんのこと」
「うっ」
「どうみたって、その打撲の痕は、喧嘩なんかでできないのにね。
 あんまり保健委員を舐めてると、そのうち下剤でも盛るよ。部屋から出れないように」
「…すみません」
「分かったならいいけど」

湿布代わりの清潔な布を渡すと、煎じていた薬の続きをしようと、部屋の奥へと引っ込むことにした。



「あれ、こうかな?」
「え? っ痛っ」
「あ、間違えました」
「うわっ」
「違った。どうやって巻くんだっけ?」
「あー、もーこうだって」

騒々しい会話を背に、とろり、と火にかけられた鍋の中に、さっき後輩が探してくれた粉末を入れる。
山のように降り積もった粉は、ゆっくりと、その身を沈めていき。
やがて、呑み込まれてゆく。











「先輩、塗り終わりました」

遠慮がちに声をかけられ、私は火を止めると衝立の向こう側に顔を出す。



「ありがとう。悪かったね、引き留めて。もう部屋に戻っていいよ」
「はーい。失礼しました」

のびやかな声と共に、水色の制服が障子の向こうに消えた。
パタパタと廊下を走る足音が遠くなり、静寂が訪れた。



「あれ、誰だっけ?」
「もーきりちゃんも、もうちょっと後輩の顔を覚えてあげなよ」
「忙しくてあんまり学校にいないからなぁ。委員会ので精いっぱいだ」
「変なバイトしてるからでしょ」
「危ないのはしてねぇって」

慌てて笑みを繕う彼にため息を一つ吐き、それからさっきまでいた後輩の名前を告げる。
もういない彼を、障子の向こうを見透かそうと、じっと視線を向けていて。
きりちゃんの、その表情は、酷く虚ろだった。



「俺らも、」
「え?」
「俺らも、あんな風に小さくて柔らかい手をしてたのかな」
「きりちゃん…」

思わず私は自分の手を見つめた。

(この傷は三年生のお使いで、こっちの傷は四年の演習。…それからこの火傷は、あの時の、)

のめり込んだ感覚。
痙攣が途絶えた、あの瞬間。
体に降りかかった、生臭さと温かさ。

---------------------- 一生、消えない記憶。











「あ、もうこんな時間」

鐘楼の音に、きりちゃんの声が重なり、はっ、と顔をあげた。



「え? 何かあったっけ?」
「乱太郎、忘れたのか? ほら、正月用の餅をつくって」

この時期、最後の試験に備えて忙しい6年生の代わりに、正月の準備をするのは5年生の役目で。
角松を立てたりしめ縄を作ったりする他に、鏡餅を用意するのも一つの仕事だった。
餅つきには人手がかかるから全員でやろう、と庄左ヱ門が言ったのはいいけれど、
演習 (という名の補習) や先生方のお使いなど、全員がなかなか集まれず、
師走もぎりぎりになってしまっていた。

(ホント皆で何かするって久し振りだなぁ。ここ数週間、顔を合わせていないメンバーもいるし)



「あ、そうだった。早くしないと庄左ヱ門に怒られるね」
「はぁ。タダ働きは体に悪いんだよなぁ」


子どもの頃から変わらない彼の言葉に、ぎゅっ、と掌を握りしめた。



-----------------ずっと、子どものままでいられない、って分かってるのに、ね。











「あ、二人とも」
「乱太郎、きり丸、遅い」

すでに餅つきは始まってしまっていたようで、こそっと近づいた裏庭からは賑やかな声が響いてくる。
どうやって入り込もうか、と、きりちゃんと顔を見合わせていると、三治郎が私たちに気が付いた。
兵太夫が振り返りざまに言い放った言葉に謝りつつ、みんなの元へと向かう。



「どっちにしろ、二人は戦力外だな」
「なんだよ、それ」
「じゃぁ、きり丸、交代な」

売り言葉に買い言葉、団蔵から杵を渡された途端、受け取ったきり丸がよろけて。
そのまま地面に打ち付けそうになるのを、なんとか堪えたようで、臼にめがけて振り下ろした。
それ以上持ち上げる気にはならなかったらしく、そのまま杵を餅にのめり込ませると、きり丸は手を放した。



「何でこんな重いんだよ。たかが杵でこの重さは異常だろ」
「あーそれ鉄が入ってるから」

そう言いつつ、再び杵を掲げ、軽々と餅つきをしだした団蔵の手元に狂いはない。
臼の傍らにいた伊助が、慣れた手つきで餅を返していく。
その度に、ふっくらとした柔らかな匂いが広がる。



「はぃ? 鉄が? 何で?」
「俺達が1年の時に6年生に七松先輩とか潮江先輩とかいたの、覚えてる?」

つく手を止めず、杵を振り上げながら金吾が話に入ってきた。
ぶん、と風を切る音は、まるで刀の素振りをしているかのような勢いで。
ペアになっている兵太夫が「ちょっと金吾、話をしてて僕の手をつかないでよ」と慌てて見上げる。



「あんな濃い先輩、忘れられないよね」
「何事も鍛練だって、ことで杵の芯に鉄の重りを入れたらしい」

私達が1年の時に6年生だったのだから、実際に餅つきの場面を見たことはない。
(そういえば、雷蔵先輩達とは、一緒に餅つきをしたけれど)
けれど、妙に想像できるその情景に、思わず私の口から笑いが漏れた。



「でも、迷惑な話だよねー」
「そうかな?」

水の入った桶に少し赤くなった手を浸していた三治郎が、ため息を一つ零した。
と、まるで杵に鉄など入ってないかのような軽やかな所作で、餅をついていた虎若が疑問を呈する。



「虎ちゃんは、ずっと鍛えてるもん」
「まぁね」
「それで食満先輩がね、それまで使っていた杵に鉄の芯を入れたんだってさ」

のんびりとした口調で縁側に座っていた喜三太が、終わりかけた話に割って入ってきた。



「ところで、喜三太は何やってるの」
「えー応援かなぁ?」
「何で応援なのさ?」
「乱太郎、ぬめぬめしたお餅を食べたい?」

伊助の言葉に、力の限り、首を振る。
彼が世話をしている蛞蝓は年を重ねるごとに巨大化していて。
それらが辿った後にできる跡も、威力を増しているのは気のせいではないだろう。



「ほら、次のお米がもうすぐ蒸せるよ」
「私達は何すればいい?」
「そっちで、つき終わった餅を丸めてよ。さっきから、しんべヱが食べてばっかでさぁ」

庄左ヱ門が指した先には、幸せそうな顔をしたしんべヱが両手に餅を抱えていた。



「あ、乱太郎ぉ、きり丸ぅ」
「しんべヱ」
「駄目じゃないか、つまみ食いして」
「つまみ食いってレベルじゃないだろ。残ってる方が少ないし」
「だって、つきたてのお餅、とぉーっても美味しいんだもの」

そう言いながらも、その頬のような柔らかそうな餅に口を埋めることを止めないしんべヱに、口元が綻ぶ。
乱太郎ときり丸もどう? と差し出された餅を受け取ろうとして、庄左ヱ門が見ていることに気がつく。
そのまま齧り付きそうなきりちゃんの首根っこを掴むと、机の方に向かう。



「おーい、乱太郎、きり丸。これを、丸めてよ。しんべヱ、それ以上食べるなら、あっちで応援」
「はーい」

つけた餅を持ってきた伊助と入れ替わりに、しんべヱが立ちあがった。
餅が入っている器からは、ほわり、と甘い蒸気が上がっている。
桶で手を冷やすと、粉を引いたまな板の上にのせようと餅を取り出そうとして。



「熱っ」

掌に貼りついた痛みを投げつけるかのように、餅をまな板に叩きつけた。



「セーフ。大丈夫か、乱太郎?」
「うん。あー熱かった。伊助達、よくこんなの触れたね」
「うん。まぁ、慣れればね。こっちの餅丸めの方が大変だよ」

冷やそうと、再び桶の中に手を突っ込むと、じりじりと疼くような痛みが伝播する。
それでも、だんだんと薄まっていくその感覚に、ほっと、胸を撫でる。
そっと、水から揚げた手は、白くふやけていた。

(これくらいなら、痕にはならないだろうな)

思わず古傷と見比べては痛む自分の弱さを隠すように、ぎゅっ、と掌を握りしめた。











「もう大晦日だなんて、一年って早いね」

不格好に丸められた鏡餅を眺め、伊助がぽつり、と漏らした。
べたべたと、ひっつく餅と格闘していた手を、私は止めた。
粉だらけの手で、さらに餅に粉を掛けていたきり丸が、応じる。



「春には六年生だもんなぁ」
「そうだね」
「何か、変な感じだよな。その次は卒業か」

きりちゃんの言葉に、皆の方を見ずにはいられなかった。

楽しそうに談笑している喜三太としんべヱ。
疲れ一つ見せずに杵を振り上げている金吾と虎若。
その傍らで、せっせと餅をひっくり返している兵太夫に三治郎。
指示を出している庄左ヱ門と、終わったのかその傍でのんびりしている団蔵。



(卒業したら、わたしは、どうするつもりなのだろう)

そろそろ先生に伝えなければ、と思いつつも保留しているそのことを、頭の中で反芻する。
3、4年生の頃はあんなにしていた卒業後の話題を、最近、誰もしなくなった。
「忍びになるらしい」「家を継ぐらしい」という噂はあっても。

密やかに伝播していくそれは、初めて人をあやめた時と同じような、冷たさを喉元に突き付ける。











「あんまりのんびりしてると、お餅がどんどん硬くなっちゃうわよ」
「「「おばちゃん」」」

背後の声に振り向くと、おばちゃんは「ほらほら、手が止まっているよ」と桶に手を浸し、器の餅を掴んだ。
むんずと塊をちぎると、くるくる、と私たちの倍はあろうかというスピードで丸めだす。
できた、と置かれた餅の表面のきめ細やかに、嘆息が漏れる。



「ほぇぇ、さすがおばちゃん」
「やっぱり、おばちゃんに手伝ってもらってよかったね」
「僕たちだけだと、鏡餅っていうより、なんだろ…」
「とりあえず、鏡じゃないってことは確かだな」
「すごいなぁ」
「何で、こんな熱い餅をそんな早く丸めれるんすか?」

私達の声に、他の皆も集まってきて。
その鮮やかな手つきに称賛があちらこちらで上がる。
おばちゃんは、少し照れ笑いを浮かべると餅を丸める手を休めた。



「何でって、年の功かしらねぇ。
 あんた達と違って、ずいぶん皮が厚いからね。これくらいの熱さなんて、ものともしないわよ」

ほら、と目の前にかざされた手には皺が刻まれていた。
それは、おばちゃんが生きてきた生き様を表すような、そんな深い皺で。
それから、私の手を優しく包み込み、「あんた達の手は、まだまだ子どもねぇ」と、笑った。

--------- あぁ、そうか。まだ、私は子どもなんだ。



「そんなぁ、おばちゃんは、まだ若いじゃないっすか」
「そんな事言ったって、何も出ないわよ」

きりちゃんの、ちぇっ、という言葉に、一同の笑い声が溢れかえって。
何だか、久しぶりに皆の心からの笑顔を見たような気がして。
それを閉じ込めるように、ぎゅっ、と掌を握りしめた。















(そう遠くない未来、私はそう思うんだろう。あの頃は、と。けれど、今はまだ、)








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