漆
今いる広場の先端から下を覗きこめば、すぐそこに海岸が広がっている。けど、その足もとの崖は垂直に切り立っていて、そのまま降りて行くには装備が足りなかった。仕方なく、獣道を引き返す。 「なぁ、三郎。結局、先生に言うのか?」 ぴたりと口を噤んでしまった三郎に、再三、問いかける。けれど、その話は終わった、と言わんばかりに三郎は無言のまま山道を下る足を速めた。塩害を防ぐためだろう、岸沿いに植えられた松林が開けると、潮の匂いが濃くなった。力を失っていく太陽は酉の方角にある山へと傾いていたが、卯の方にある海から月が出てくる気配はなく、薄緑色の空が広がっている。不意に、先に行く三郎の足が止まり、その背にぶつかりそうになった。 「三郎?」 「あれ」 三郎が指した指先を辿ると、『立ち入り禁止』の立札が見えた。随分、昔から立っているらしく、貼りつけてある木はボロボロで、墨の字も掠れている。その看板を出発として、岩場にぐるりと縄が巻かれていた。この縄の中には入るな、ということだろう。 「何だこれ? 兵助、分かるか?」 「さぁ、何だろうな。先生たちが仕掛けたものじゃないと思うけど」 「あー板、古そうだしな。ってことは、地元の人か」 地元の人が立ち入り禁止と書いたからには、それなりに危険が潜んでいると考えていい。俺たちは、規制の縄から離れてそれを観察した。ふ、と風向きが変わった。潮臭さとは別の、もっと胃に来るような刺激が鼻を突く。「なんか硫黄くさい?」と三郎に聞くと、あーと唸るような相槌をされる。 「中心の岩、穴が開いてないか?」 「その周り、濡れてるな。ってことは、間欠泉か?」 そう結論を出した瞬間、「その通り」と野太い声が背後から落ちた。 「「木下先生」」 「お前ら、こんな所で何やってるんだ」 振り返ると、いつの間にか俺の担任である木下先生が、腕組みをして立っていた。「ここらは、課題の範囲から逸れてるぞ」と言われ、どうしようかと一瞬、迷う。しゃべるな、と俺たちだけの矢羽根を三郎が寄こしてきたから、別の話題を振った。 「それより、これ、どれくらいの間隔で噴出するんですか?」 「あぁ。数刻に一回、おそらく潮汐と同じ頃合いで、温水が吹きあがるそうだ」 「数刻に一回ってことは、今は見ても大丈夫ですよね。まだ濡れてるし、潮が満ちてきってないし」 三郎の言葉に先生は、あぁ、と頷きながらも「けど、ほどほどにしとけ。噴出するお湯は温いが、相当勢いがあるそうだ」と忠告する。けど、三郎がそんなこと構うはずもなく。俺も一緒に、その覗き込んだ。近寄ってみると、湯が噴き出てくるであろう穴がぽっかりと開いていた。思ったよりも、その空洞は大きく、軽く人一人が入れるだろう。 (そりゃ、この穴から水が飛び出したら、すごい勢いだろうな) 先生の注意を思い出しながら、じ、っと穴に視線を注ぐ。どれくらい深さがあるのか、あまりに暗くて見当がつかない。顔を上げて周囲を見回すと、この岩場はさっきの崖の延長上にあるらしい。延長上というか、崖の一部が間欠泉となっているのだろう。それ以外にも、ごつごつとした岩肌には、あちらこちらに洞穴になりそうな亀裂が走っていた。要は、似たような岩場が海岸からずっと海辺の先、一つだけ枯れずにある松の木の所まで続いているのだ。洞窟同士もどこかでつながっているのだろう。 「ほら、お前ら、そろそろ帰るぞ」 齧りつくように見入っていた俺たちに、先生が声をかけてきた。ちらりと三郎に視線を投げると、それ以上、見所はないと判断したのだろう、三郎が頷いた。それで、俺たちは館へと足を向けた。 *** 熱を帯びた凪いだ風が宿に打ち寄せる。暗くなってきたな、と灯を点そうかと体を起こすと、窓から鮮やかな茜に染め上げられた空が見えた。酉の方角にある崖には、沈みかけた太陽が引っかかっていた。はっきりとした夕焼けに、当分雨が降らないことを感じる。そんな事を考えながら、ぼんやりと本を広げていると、頭上から少しだけ苛立ったような声が降ってきた。 「雷蔵とハチ、遅いな」 「あぁ」 生返事だったのが気にくわなかったのか、「てか、お前、こんな所に来てまで読書かよ」と三郎が本を取り上げた。半目のまま俺の隣に座り込む。 「暇つぶしに、お頭から借りたけど、結構、面白いぞ。龍火のこととか、この辺りの伝承が書いてある」 「龍火のことも?」 「あぁ。まだあんまり他は読んでないけどな」 「ふーん、あ、地図と海図」 冊子に挟まれていた紙きれを取り出すと、三郎が指を滑らし出した。それを辿りながら、今日の見聞きしたことを頭の中で整理する。 「ここが今いる館か? この辺りが、最初にみつけた洞穴で、こっちが、今日水をもらったあたりだな」 「あぁ。これが、例の崖。で、そこから少し下が間欠泉だろ」 三郎の言葉に、ふーん、と頷いて、そのまま、なんとなく崖の続きを目でなぞっていく。今いる海賊の館の前に広がる海の対岸の半分あたりまで続いていることに気がついた。途中で、崖が湾曲して埠頭のように伸びているのだろう。その崖の一番端は、さっき間欠泉の所から見た立派な一本松の所か。 「こっちにも崖が続いてるんだな。昨日は暗くて分からなかったし、今日は意識してなかったけど」 「兵助、今、何て言った?」 緊迫した様子の三郎に気圧されながらも、「今日は意識して」と、再度、繰り返そうとすると、「その前」と鋭く遮られた。眼光のきつさに、ごくり、と唾を飲む。「昨日さ、この辺りで、龍火を見たんだよな」と地図上で、館とは対岸の、松のある崖の傍にに横たわる海を示すと、三郎が「海だったんだな」と念を押してきた。目を閉じてもすぐに思い出すことができる。海を漂うクラゲのような、ゆらゆらと揺らめく青白い光。それは地上では考えられない動きだった。 「あぁ。陸地だったら、光はあんな揺れ方をしない」 そう断言すると、三郎が地図や本をすごい勢いで掴んで立ち上がった。 「どこ行くんだ? もうすぐ飯だぞ」 「あ、ちょっと、海賊さん達のところにな。 兵助は先に食堂行っててくれ。雷蔵とハチとそれから私の席を取っといてくれないか」 止める間もなく嵐のように立ち去った三郎に、俺は呆気に取られてついていくことができなかった。 *** 三郎が戻ってきたのは、ずいぶんと俺の箸が進んだ頃だった。最初は三人を待っているつもりだったけど、ちらりちらりと向けられる食事当番の目に根負けしてしまった。一人静かに食事を進め、すっかりと冷めてしまった汁を啜っていると、椅子が小さく音を立てた。椀ごしに三郎が見えて、慌てて飲み込む。 「何しにいったんだ?」 そう問いかけたけれど、三郎は俺の方を一瞥することもなく「いただきまーす」と合掌した。そのまま魚へと伸びる箸に、やつの腕をつかむ。「教えろよ」と問い詰めると、「明日な」と面倒そうに俺を見遣った。 「教えられないわけでもあるのか?」 「いや……今日言ったら、雷蔵とかハチとかに教えるだろ」 「課題と関係あるってことか?」 俺の質問には答えず、三郎は空いていた左手で器用に汁を飲み出した。すかされているのには腹が立ったけど、これ以上何を言っても無駄だと悟り(三郎は頑固だ)、仕方なく右腕を離した。 (絶対、何か、隠してるよな) *** ようやく返ってきたハチと雷蔵は、すっかりボロボロだった。戻ってきた二人にすごい勢いで飯を食らうと、今日会った出来事を話し出した。洞窟の中で、随分と苦労したらしい。三郎は、さっきから二人の話を値踏みするように聞いているようだった。 (三郎の気がかりと、何か関係があるんだろうな) 三郎にしては珍しく真剣な面持ちに、俺も注意深く話に耳を傾ける。同時に三郎の表情にも、変化がないかと意識を払っていた。だから、「で、そっちは、何か手掛かり見つかった?」と雷蔵に話を振られて、一瞬、頭が混乱した。 「え、手掛かり? って、何の?」 「何のって、課題のだよ。二人一組で対抗の」 俺の言葉に呆れたのだろう、大丈夫か、って表情でハチが俺を覗き込んだ。とりなすように「……あぁ、そのことか、そのことだったら特になかった。な、兵助」と三郎が会話を繋ぐ。 「あ、あぁ」 俺に向けられた三郎の視線の強さに、昼間のことは話さない心づもりなのだろうと、俺はそれ以上、付け加えなかった。三郎が何か企んでるんじゃないかって疑念を抱きながら。 ------------------相談しなかったことを、俺は後から嫌というほど後悔する。 戻 進
title by メガロポリス |