あの時、花見をしようと言いだしたのは誰だっただろう。三郎? ううん、兵助だったろうか、それともハチだったかな。ちっとも覚えていない。飛ぶように過ぎて行く日々は、「まだ懐古するには早い」とでも言うかのように次々と新たな“思い出”を創り出しては過去を塗りこめて行く。記憶は、まるで夏の日に地面に撒いた水が蒸発していくかのように僅かに歪まって昇華していくのだ。目を閉じればまだ瞼の裏に浮かぶ薄紅にけぶる桜は、本当にあの時見たものなのか、それとも僕が作り上げたものなのか、僕は確かめる術を持っていない。 *** 「あ、雷蔵、そこ毛虫いるからな」 水分を撥ね飛ばすような太陽の日差しに、体の中で膨れ上がる熱さに辟易して少しでも涼もうと木陰に入って休んでいると、級友が注意をしてきた。ぼんやりと振り返って、ハチの指す先を辿ると、ごつごつとした節が盛り上がる幹に浮き立つ緑。鮮やかな模様と棘はこちらを威嚇するかのようであまりに近くて思わず「うわぁっ」とのけ反ると、ハチが眉を緩く顰めた。 「そんなに、叫ばなくてもいいのにな。こいつらも、けっこう可愛いと思わないか?」 「それはハチだけだろ」 同意を求められた三郎が呆れたように、隣にいた兵助を見遣った。兵助はというと三郎の問いかけには応じず、一人、視線を木に向けている。「これ、桜の木か?」と独り事に近い呟きだったけれど、なんとなく僕も顔をそちらに向けた。深茶色の枝には、所々で蟻が行列を作り群れていた。まだ幼い毛虫は、その合間を縫う様にのたりのたりと蠢いていた。 「春だったらぱっとみで分かるんだがな」 「うん、花がないと、分からないね」 「そうか? 幹をみりゃ、たいてい見分けがつくけどな」 「それはハチだけだろ」 今度は兵助が混ぜ返した。本日二回目の台詞にハチは軽く頬を膨らませ、「悪かったな」と抗議の声を上げた。もう一言いじろうと冗談でも投げかけようととしていたのだろう、紡ぎかけた三郎の唇は、けれども空気を孕んだだけで終わった。「どうしたのさ、三郎?」と問いかけると、小さな悪戯が見つかった時のような、バツの悪そうな表情を浮かべた。「いや、別に」ともぞもぞと口を動かしている三郎に、兵助が「気になるだろ」とせっついた。 「前に花見しに来たのって、ここだったか? と思って」 その言葉に僕はぱっと、辺りを見回す。春先、花びらと共に萌芽した葉は互いを覆うまでに大きくなっていた。花や葉の隙間から見えたいた透いた薄色の空も、今はのっぺりとした青が僅かに覗くまでに緑が生い茂っていた。かすかに吹く風に葉がざわめき、重なったり離れたりして変則的な格子戸の影を作り出す。木漏れ日が、さわさわと揺れた。 「…どうだろう、分からないな」 嘆息を吐き出すように兵助が零し、それに同調するように「あぁ」とハチが頷いた。僕も「そうだね」と呟く。あの頃は、日々がただただ積み重なっていくばかりで、それを思い返し反芻するような事などなかった。だって、そんな毎日が永遠に続くと思っていたから。わざわざ記憶に変えて蓄積していかなくても、また、同じように繰り返せるのだと、そう信じていた。だから、はっきりと覚えていない。覚えようとしなかった。ただ、ここまで花見に来た、見上げた桜がたぶん綺麗だった、ということだけが頭を過ぎる。 (もしかしたら、それも捏造なのかもしれないけど) 「あぁ、そういやその時食った団子代、借りたままだったな」 縛り付けるような空気の固さを解きほぐすかのように、三郎が茶目っ気たっぷりの声でハチに話しかけた。思い出したように鳴き出した蝉の声は、耳の中で伸縮し反響する。 「まじで?」 「嘘」 「あのなー」 本気で喜んでいたハチは、本気なのか演技なのかは分からないが、その場に崩れ落ちつつ兵助に凭れかかった。肩にきた重みに眉を寄せながらも兵助は取りなすように三郎に「三郎、あんまりハチをからかうなよ」と声を掛ける。 「ま、記憶なんて曖昧ってことさ」 「そりゃそうだけど」 「これぐらいが丁度いいさ。全部覚えているのは辛すぎる」 口笛を吹くような軽い口調の三郎の目に宿る光は、酷く冥いものだった。徐々に幕が開いて明らかになっていく世界は美しく、そして、とても哀しいものだった。振り払っても振り払っても拭い去ることのできない現実の痛みに、僕たちは目を瞑った。ゆっくりとそれが濾過されるのを、息を殺してただただ待つしか術がなかった。過去にして忘れ去るしか。それでも、すべてを消化できるわけではなくて。残された澱が自分を巣食うようなそんな恐怖に苛まれる。 (だからこそ、こうやって僕たちは、日々を面白おかしく、笑い転げまわって過ごすのだろう) 夏桜 ←88festa ←top |