手の中で弄んでいた携帯が、不意に震えた。チカチカと青いランプにメールを受信したことを知る。差出人は竹谷八左ヱ門。ため息をひとつ。公園の真ん中に立っている時計を見上げると、ちょうど待ち合わせの時刻だった。その時点で用件は想像がついたけど、どれくらい遅くなるのかを確認するためにボタンを押す。『悪い。15分くらい遅れる。暑いから、どっか、店に入って待ってろ』と、一応は気づかいを含んだ内容に、後で遅刻の理由ぐらい釈明させてやろう、とクリアボタンに指を伸ばす。マナーモードにしてあるために音も立てず、ハチが飼っている犬の待ち受け画面に戻った。返信を打たないのは、これで連続三回目の遅刻だからだ。

(前回も二度としないっつったのに。返事が来ねぇ、ってちょっとぐらい焦ればいいんだ)

刺すような日差しが足もとに影を焦がす。着ぐるみみたいな膨れた毛を纏った鳩たちは、気だるそうに木陰で群れをなしていた。これだけ暑いと子ども達も遊ぶ気になれないらしい。誰もいない公園の端にあるブランコがゆらめいた。風があるわけじゃないから、きっと、陽炎か眩暈のせいだろう。と、腰かけた噴水の中央から高らか水柱が上がって、水滴が舞った。降り注ぐような蝉時雨が記憶に染み入っていく----------。








***



蝉の屍骸が地面に転がっていた。 いや、まだ、屍にはなっていないのだろう。 黒々と群がり集る蟻に喰まれながらも、必死に手足を動かし、もがいてている。 じっと俺を覗き込むその目が、訴えかける。 生命が謳歌するこの季節がどうも陰鬱なものに感じるのは俺の性格が曲がっているからかもしれない。
俺は、夏が嫌いだった。

汗が、伝う。じわじわ、芯へと収縮していく熱が…気持ち悪い。お腹の辺りに渦巻いていた嫌悪感がせり上がってくる。口の中が酸っぱい。自分でも、脱水症状を起こしかけているのは分かっていた。けど、

-----------------------このまま、地面に烙きついて影になってしまえばいい。

緑が痛い。必死に、生きている生命。ハレーションを引き起こす。その空気の濃さに息がつまる。 じっと、地面を凝視したら、宙から言葉が落ちてきた。

「何、見てるんだ?」

久々に聞いた蝉以外の音に、一瞬、視線を上げようか迷って、止めた。無視を決め込み、息を殺す。さっさといなくなればいい。けど、そんな気持ちとは裏腹に男は近づいてくる。擦れて汚れたサンダルに、大きな爪の親指。立ち去る気配のなさに少しだけ顔をあげると、しゃがみ込んできたのは、同年代の男だった。

「…蝉」

そう答えてやると、痛むような彼の瞳の奥に、蝉が転がっていた。いつの間にか、動きが止まっていた。

「誰?」
「竹谷。お前は?」
「久々知」
「くくち?」

久々知と、指で地面に書いてみせた。蝉の屍骸に添えられた名前はまるで墓標のようだっただった。

「もう、これ、死んでるのか」

問いかけるというよりは確かめるように呟いた竹谷は、それから、そっとその傍の土を掘り出した。奴が何をし出そうとしているのか、すぐに分かって、それが余計に腹が立つ。

「お前って、そうやって、何でも埋めてるのか」

竹谷は何も答えなかった。拳よりも小さい穴はすぐにあいた。そっと蝉を掴む指先には慈しみが溢れていた。彼に詰まった優しさを、そこに全て注ぎ込むよううな、それくらい丁寧に死骸を扱った。
その指が欲しくなる。

「何で、」

思わず言葉を漏らしていた。

「え?」
「蝉は外の世界に憧れるんだろうな? 死ぬって分かってて」

竹谷は困ったように俺を見て、それから視線を下に外した。よけておいた砂を掴み、まるで布団を被せるように優しく穴にかけていく。さらさら、と覆われていく穴。それが閉じられると、竹谷は軽く地面を押え、ふぅ、と息をついた。それから、俺を真正面から見据えた。

「俺は、死ぬと分かってても懸命に生きてるこいつらは、すげぇと思う」

耳奥で、夏を逝く蝉時雨と共にその声は永遠に刻み込まれた。








***



「…すけっ! へーすけっ!」

耳元で弾けた声に、は、と眼前が明るくなった。額に噴出する汗に構うことなく必死に俺の名前を呼ぶハチがそこにいた。ガクガクと肩を揺らされて、それでようやく「あぁ、ハチか」と返事をすると、ふにゃりと力が抜けたようにハチはへたり込んだ。

「っ〜マジびびらせんなよ」

矢継ぎ早に、倒れてたから何かあったんじゃねぇか、だとか、救急車を呼んだ方がいいか、と大げさな心配ぶりに言を継げずにいると、ハチの叫び声に負けじと蝉たちがあちらこちらで鳴き出した。「ホント、大丈夫か?」とハチの優しい指が俺に伸びる。

「なぁ、ハチ」
「ん?」
「夏も悪くないなって、お前といると思うよ」

俺の言葉に目を剥いて「やっぱ、暑さでおかしくなったんじゃねぇか」と焦るハチに、「だったら、今度は遅刻するなよな」と俺は笑った。
レクイエム・ワルツ







←88festa 
←top