遠くで蛙の鳴く声。土気の匂いは分からないが、一匹だけじゃないところをみると、直に雨が降ってくるのだろう。鼻が馬鹿になってるからな、と一つため息をついて、空を見上げる。たっぷりとした黒い雲が、ただでさえ光の少ない空を覆っていた。そこまで見て、衣服から僅かにさらされた頬に貼りつく風はべっとりと湿気を帯びてることにようやく気がついた。

(こんな間近になるまで気づかねぇなんてな)

今にも雨粒がしずり落ちてきそうな雲合いに、もう一度だけ、ため息を零す。疲れた体に雨でも降られることを思うと、一刻も早く落ちあう場所に着かねば、と焦りがこみ上げる。が、それとは裏腹に、体はそのままズブズブと地面に沈んで行きそうだった。具足をつけた武将でもねぇのに足は泥のように重くて、引きずるようになんとか歩を進めるしかなかった。その辺りの木の陰で休みたい欲求が突き上げる。

(あぁ、このままぶっ倒れて寝れたらなぁ。けど、そしたら三郎が怒るだろうな)

目の奥が急に暗くなった。ちらりと腹部に視線を落とすと黒ずみが広がっていた。そこへ手を持って行くと、ぬるりと生暖かい感触が指先に絡む。狭窄していく世界----------------。






***



ぱちり、と爆ぜる音が遠くでした。ような気がして。滲んだように隈がはっきりしてなかった世界が、少しずつはっきりしてくる。天井に描かれた見慣れぬ染みに、ここが寮長屋の自室でないこと知った。どこだ、と手がかりを探すために辺りを見回す。
「起きたか」

聞き覚えのある声が、足もとの方から届いた。生きてた、と頭の中の自分が呟く。

「……あぁ、三郎か」
「感謝しろ。ここまで運んでやったんだからな」

俺を覗き込んだ三郎は 酷い雨だ、と三郎は遠くに視線を投げた。それにつられて俺もそっちに顔を向ける。ぴちりと閉じられた扉からも雨の香りがした。遁走していた時には自分が鉄錆びの匂いを衣にしていたから気づけなかった。上体を起こそうとすると裂けるような痛みが腹に走った。ぐらり、と鈍器で殴られたような暗さが眼前を覆う。体の均衡を崩した俺に、三郎が呆れたような表情を向けた。

「まだ寝てた方がいい。血、結構、出てたし」
「手当、ありがとな」

ギチリと的確に傷を押さえつけるようにして布が巻かれていて、すでに血は止まっているようだった。三郎は患部を一瞥すると体をすぐに背けた。どうやら、囲炉裏の火を落とさないように枝をくべているらしい。

「なぁ、ハチ」
「なんだ」
「私がお前の前で死んだら、お前んとこの狼にくれてやれ。肉も、骨もしゃぶらせてさ」

辺りにあった小枝でもかき集めたんだろう、三郎が生乾きの木を火に投げ入れるたびに、パチリ、と膨れ上がって破裂する音が室内に響いた。夏だというのに馬鹿みたいに寒いのは、血が抜けたせいか、雨に打たれたせいか、それとも、

「は、……何で」

ぽかりと開けた口の中に、燻された煙が入り込む。喉をひっかくようにして肺腑に落ちて行く。苦しい。

「餌不足で困ってるっただろ」
「そりゃ困ってるけどさ」

だったら、と続けようとする三郎を遮る。「お前は死なねぇよ。死なせねぇ」と。振り返った三郎はきょとんと俺を見つめ、それから破顔した。くつくつと、喉を絞り出すような声を立ててしばらく笑い続け、それから不意に真顔になった。

「死ぬさ。人間の、いや、生き物の摂理だろう」

お前が一番解っているだろ、と言外に含まされた声が脳裏に過る。生あるものには死が伴うことなど、解っていた。痛いくれぇ解ってた。けど、分かりたくねぇことだってある。

「俺が、お前を死なせねぇ」

もう一度強く言うと、三郎は「お前、いい男だな」と茶化すように口笛を吹いて俺の方を見遣った。
それから、「さっき、死にかけてたけどな」と淋しそうに笑った。
あなたの骨をください







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