雨戸を閉めても響く嵐の気配に、洗濯機に放り込まれてしまったかのような感覚を覚える。 獣の咆哮のような風が唸りに交じって、パシッ、パシッと何かが爆ぜるような音がする。 きっと家の傍にあるポプラの枝が窓を鞭打っているのだろう。 ふ、っと唐突に闇に支配された。電気を使いすぎたわけでもないから、きっと、停電したのだろう。 闇に慣れてきた目で懐中電灯を捜すかどうか迷って、やっぱり、そのまま寝てしまおうかとソファに向かった瞬間、

ドンドンドン

空耳かと、思った。 こんな嵐の夜に、というよりも、僕の家に訪ねてくる人は、いない。 けれど、音は迷いもなく、僕の家のドアを貫いていた。 間違いとか酔っ払いか、と考えが過ぎったけど、真っ直ぐに響くノックの音に、その類ではない気がした。 泥棒とか押し入りだったら、ということもなくはなかったが、こんな荒れ果てた家には興味がないだろう。 まぁ、こんな風に律儀にドアを叩く泥棒、というのも聞いたことがないのだけれど。そんなことを考えている間も、ドアをたたく音は途絶えることを知らなかった。

ドンドンドン

まっすぐな音は「何か」明確な意思を持ったもののような気がした。

爪先から忍び寄ってくる床の冷たさに辟易しながら玄関へと降り立って、鍵に手をやる。 うちのような古いアパートでは、生憎、チェーンなんてしゃれたものはない。 開けようかどうしようかという迷いは、とっくに消え去っていた。

---------------何故だか、開けなきゃいけない、そんな気がした。






***



「こんばんは」

唸り声のような風の音や様々な物を叩きつける雨音の混在する中、その言葉だけが、はっきりと届いた。

「えーっと……」

目の前にいるのは、僕とそっくりな男の人。一瞬、立て鏡でもあるんじゃないか、って思ってしまうぐらいに。
けれど、咄嗟の事に、どう反応すればいいのか分からず、僕は黙り込んでしまった。叩きつけるような激しい雨音に混じって、困ったような、少し哀しげな声が耳に届いた。

「雷蔵、忘れたの? さーちゃん、って言えば分かる?」

その呼び方をする人は、たった一人しか心当たりがなかった。

「さーちゃん、って、もしかして…え、でも、だって?」

僕の記憶に棲んでいるさーちゃんと、目の前の彼を重ねる。細い線に、幼く柔らかい顔。ふわふわとした髪。 けれど、今目の前にいる人は、がっしりとした体つきに、精悍なラインで、全然違った。

「雷蔵、ずっと、勘違いしてただろ。私が女の子だって」

けど、にっかし笑ったその笑顔は、あの頃のままだった。 ダイアモンドみたいな輝きをキラキラと双眸に宿して。 きゅ、っと口角が上がって、唇から小さく笑いが漏れた。

(あ、さーちゃんだ)

子どもの頃と何一つ変わらない、まっさらな笑顔だった。






***



「散らかってて悪いけど、その辺、座ってて」

あんな雨の中ドア越しで話すのも、と、僕は彼を部屋に招き入れた。手探りでリネンボックスから洗いたてのタオルを渡すと僕は暗がりの中、懐中電灯を探した。 けれど、懐中電灯はいつもの場所になく、キャンドルがあったことを思い出して、棚から取り出す。 友達から貰ったアロマキャンドルだったから甘ったるい花の香りがするけれど、それは我慢してもらおう。 そう思って、テーブルにそれを置いて、ライターで火を灯した。 音も吸い込まれそうな闇を、橙色の光が柔らかく照らす。

「えっと、あのさ、」
「どうした、雷蔵」
「さーちゃん…って呼ぶのもさ」
「あぁ、三郎でいいよ」

三郎は床のラグに腰を降ろして、あぐらをかいていた。キャンドルの明かりが揺れて、彼の顔に落ちる陰影が斑になっている。 僕はどこに座ればいいのか、さんざん迷って、うろうろと立ち歩いて、結局、彼の真正面に座った。 それを見て、三郎が小さく笑う。「昔と変わらないな、その迷いっぷり」と。それが、なんか恥ずかしくて、話題を振る。

「で、どうしたの? 突然」

さーちゃんこと三郎は、たぶん、遠縁の又従兄弟だかそんなんだったはずだ。たぶん、というのは、もう聞く相手がいないから確かめようがないからだ。小さいころに二、三度遊んだことがある。遊んだというか、いろんな悪戯をして叱られたような気もするけど。とにかく、幼いとき以来、三郎とは会ったことがなかった。

「どうもさ、死んじゃったみたいなんだよね」
「え?」

夕飯がハンバーグだった、みたいな軽いノリで告げられた言葉に思わず顔を上げた。僕の息でキャンドルの炎が揺らぎ、それに照らし出された彼の陰影も、蠢く。そこにあったのは、今にも泣き出しそうな、顔。

「事故で死んで。で、神様に会って。それで、雷蔵に会いたいなぁ、って思ったら、ここにいた」

淡々と進んでいく現実感のない言葉に頭がついていかない。 とろり、と充満してきた甘ったるい香りに息がつまりそうで。 風がアパートメントを突き抜けていくたびに、キャンドルの炎が軋む。ごうごう、とうねりのような音だけが煩い。

「……うそ?」

たっぷり呼吸を3回した後にようやく言った言葉にしては、なんのひねりもないものになってしまった。 それほどに、何と言えばいいのか分からなかった。 言葉に、ならなかった。

学生時代に、プールの底に沈んで形を保たない太陽を見つめているような。
その後に疲れきって、つい、ベランダ側の机でつっぷして居眠りしてしまったような。
それで、5分とかしか寝てないのに、何時間も眠ってしまったように感じてしまった時のような。

現実と非現実が織り交ざった浮遊感と高揚感と虚脱感が、僕の思考を停止させていた。

「うそだと思う?」
「……じゃぁ、幽霊なの?」

頷く三郎を見ながら、それでも信じれない。 担がれているんだ、って、キャンドルの匂いのせいでのぼせてきた頭で考える。 昔から人を騒がせるの好きだったしなぁ、と、意識のずっと遠い所で、いたずらっ子だった頃の彼の面影を思い出す。

「触わってみる?」
「え?」

ゆらり、とキャンドルの炎が揺らめいて、彼の瞳を橙の火が覆った。 嵐というのが嘘みたいに、何も音が聞こえなかった。 僕と彼の間に、すとん、と空隙が落ちた。

「触ったら、分かる。
 けど、そしたら、私は雷蔵の傍にいられなくなるけどな」

ほんの一瞬だけ、三郎の瞳に浮かんだ澹さが、僕の心を抉った。

…あぁ、これは本当のことなんだ。

本能よりもずっとずっと深いところで、僕はその言葉を受け止めていた。



ただ、ぼくはあなたに会いにきた







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