無音の崩壊
完全に枯れ切った葦原は、絹糸前の練糸のようにわずかに黄味がかったた色合いをしていて、触れば朽ち果ててしまいそうだった。葦の根元にある腐りきった藻色の水面は常に細波だっていて、映し出された。撫でるなんて生易しいもんじゃない風のせいか、腐りきった藻色の水面は常に細波だっている。そこに映し出されて揺れ続ける空からは、ちらちらと雪が舞い続けている。見るだけで身震いするような氷色の世界に私は身を小さく固めた。 「神さびれた雰囲気だね」 吹きさらす颪の風下にいるせいか、ずっと隣を歩いている雷蔵の呟きは、その強弱が歪んで聞こえた。返事をしようと思ったが、蓑笠ごしに唇を開けた分だけ凍てついた空気が喉に入り込んでくるような気がして、言葉にするが億劫だった。少しでも寒気に触れる量を減らそうと、開ける口幅をできるだけ小さくして答えた。だが、どうやら完全に雪空に吸い込まれてしまったらしい。 「え?」 「だから、神さびれたっうか、寒々しいんだよ」 聞き返してきた雷蔵のために、今度は口角の際まで広げ一音一音をはっきりと伝える。言い終わった途端に、氷の礫を呑みこんだような、軋むような痛みが胸を襲った。私の声はさすがに二度目は負けることはなかったが、こもったような、ぼわぼわと広がりをみせた。 「三郎は本当に寒がりだなぁ」 「雷蔵が強すぎるんだよ」 「そりゃ当然だろ」 笑いに肩を密やかに揺らしていた雷蔵は「三郎も見ただろ、うちの雪」と続けた。感嘆というよりも驚愕というべきなのか、彼の里は想像もできないほど雪深いところだった。自分たちの背丈を軽く超えて積っている白は、自然への畏敬を覚えずにはいられなかった。 「けど、よかったのかい?」 「何が?」 「せっかくの正月だというのに親元の所に帰らなくて」 雷蔵がさらりと口にした言葉に、一瞬、息が詰まった。そっと目だけを動かして横を盗み見るも、すっぽりと蓑に覆われていて彼の表情はいまいち読みとれなかった。辛うじて隙間から見える唇からさらに言葉が紡がれるのを私は凍りつくような思いをしながら待った。 「ほら、学年が上がれば長期休みに家に帰れなくなることが多くなる、って先生が言ってただろ」 ほぉ、と胸内だけに安堵の息を押しだし、彼に悟られない様に飲み込む。雷蔵の言葉に普通に心配をしてくれたのだろう、と判断できたからだ。他意があるわけじゃなく、一介の友人として新年を迎えるのに里帰りしなかった同級生のことを。 (そういや、雷蔵は一度も聞いてこなかったな。どうして家に帰らないのか、って) 「ああ、いいんだ。むしろ邪魔だったのは私の方だろ」 「何で?」 「せっかくの親子水入らずだったのに。それこそ、これからは中々、会えなくなるだろ」 「会えないって、実習が長期休みに入るからだろ。それは仕方ないよ」 「けど、」 他の学年よりも早く暇を出されたのは、もうすぐ進級試験が控えていることと無関係じゃないはずだった。実戦的な授業が増えてからもうすぐ暦が一つ廻ろうとしていた。掌握の砂のように、有無を言わさずに零れ落ちていく仲間たち。命があっただけ、という言葉を何度聞いたか。雷蔵も分かっているはずだ。雪解け前に、決断を下さなければいけない、と。けど、 「別に永久の別れじゃあるまいし」 屈託ない声音からは、強がりでも何でもなく、心から雷蔵がそう思ってるのだろう。曲がることのない、真っすぐな気持ち。晴れた日の雪原のような、その眩さに私は思わず視線を伏せた。 「それより、僕の家なんかで、つまらなくなかった?」 「いや、全然。おもしろかった」 「本当に? 雪で外には行けないし、ほら、母さんに捕まって話し相手ばっかだし」 雷蔵がどことなく赤面しているのは寒さというよりも気恥かしさといった所か。その証拠に、だんだんと絞られていく声量には、申し訳ないというよりも、きまりが悪いといった色が浮かんでいた。 「いや、面白かったよ。雷蔵の性格は母上似だな」 「んー、よく言われる」 「やっぱり」 いきなり息子と瓜二つの私が押し掛けても雷蔵の母親は物怖じすることもなく「あなたが三郎くんね。雷蔵が帰ってくる度にあなたの話をするものだから、一度、会ってみたかったのよ」と温かく受け入れてくれた。その春の陽光みたいな大らかさに実感した。雷蔵はここで生まれ育ったのだ、と。 「母さんはね……父さんとはなぁ。あまり似てないと自分でも思うし」 「そうかい?」 「うん。言われたこと、ないもの」 「けど、父上と雷蔵は足の指の形がそっくりだった」 「え、そうなの? はじめて知った」 驚きに振り向いた彼の目は爛々と輝いていた。さっきにも増して紅潮している頬。よく見てるなぁ、と感心しきりの雷蔵はどことなく嬉しそうで。その表情に、私は何故だか泣きたくなった。私が彼の故郷を尋ねた訳も、これまで私が雷蔵を嬲る様に観察し続けてきた理由も、これからの思案も、全ては打ち砕かれた。彼の父親と母親によって。 「やっぱり、雷蔵に成り替わることはできないな」 「へ?」 「何でもない。ほら、早く帰ろう」 不可解な相貌で立ち止まってしまった雷蔵の手を引けば、確かな温もりがあった。そこに流れる血。 -------------どうしたって、真似できない、それ。 私がどんなに精巧に雷蔵の真似をしても、父親も母親も騙されなかった。恥を忍んで「どうして分かったのか?」と尋ねれば、彼の両親は雷蔵に似た(いや、雷蔵が似たのか)屈託のない笑顔で答えた。「そりゃ、血を分けた息子だからなぁ」と。 (あぁ、そうか。私は雷蔵になれないのだ) そう思い知らされた瞬間、私は嗤いたいのか泣きたいのか、全然分からなかった。 (ただ、無音のうちに皮膜の内側がゆっくりと瓦解していくのだけを感じ取っていた) |