静める緑
「ハチ」 そっと入りこんでくるような柔らかな声は、仲の良い学友のそれに似ていて。 ゆっくりと開けた俺の目が、穏やかに微笑む”彼”がいた。 白くたなびく吐息が、俺の名を呼ぶ。 「ハチ、何してるの?」 (あ? 雷蔵じゃ、ない?) ”彼”から発する気配が肌に届いた瞬間、違和が確信へと変わって。 ぱんぱん、と尻の辺りに付いた土を払い、立ち上がって、”彼”を見つめ返す。 ”彼”はというと、相変わらず、こっちがまどろんでしまいそうな優しい笑顔を浮かべていた。 「あぁ、鉢屋か」 「あれ? ばれたか」 するり、と剥がれ落ちた"雷蔵"の笑みは、もはや欠片もなく。 どことなく好戦的な、抜き身の刀のように尖った光が彼の目に宿っていた。 その、喉笛を喰らいつく寸前の獣のような靭さに呑まれ、戦慄が背筋を昇り詰める。 (なんなんだ、こいつ) からからに乾燥した喉で無理やり飲み込んだ唾が、耳に痛い。 こめかみを叩く拍動が、じわじわと速まっていく。 直感が告げる。動くな。と。 対峙する俺達の間に横たわる沈黙を、不意に、ぎゃぁぁ、と生き物の叫び声を劈いた。 それは不気味なほど低い声音だったけれど、俺が知っているもので。 それが、逆に俺の心を静めた。 -------周りの緑が戻ってくる。 「…ばれるだろ。気配が違いすぎる」 「いつもは間違うくせに。竹谷は森の中に入ると、途端に、敏くなるな」 (確かに。昔から、いきものの気配がひしめき合う所は、自然と感覚が強くなるもんなぁ) 少し面白くなさそうに呟く鉢屋からは鋭さが失われていた。 途端に強張った体から力が抜けていき、思わず苦笑が喉から洩れる。 それをどう捉えたのか分からないけれど、鉢屋は俺の隣へと歩み寄ってきた。 「で、こんな所まで、どうしたんだ?」 「ん、竹谷が森の中に入ってたからさ。 何か面白いものあるかなぁ、と思ってついてきた」 「ついてきた、って」 思わず、目の前にいる鉢屋を、無神経だと分かりつつ、じろじろと眺めてしまった。 (こいつは、化け物か) 学園に付随する森とはいえ、くぐってきたのは冬も藪濃く残る獣道で。 先に行く俺が藪をかき分けても、弾力のある茎葉がすぐに道を閉ざしてしまう。 この辺りをよく知る上級生ならともかく、そんな簡単についてこれる道筋ではなかったはずだ。 (なのに、服にかぎ破れ一つなく、頬に傷一つなく、だと!?) さっきとは違う不気味さに苛まれていく。 それと同時に、脳裏によぎるのは鉢屋に関する数々の噂。 どれもこれも奇想天外なものばかりだったけれど、それが妙にしっくりくる。 おぼろげな恐怖に侵食されていく俺をよそに、鉢屋はというと、物珍しそうに辺りに視線を投げかけていた。 「で、こんな所に何をしに?」 「…墓参り」 鉢屋の正体に思いを巡らせていた俺は、言葉を偽ることすら思いつかなくて。 そのまま、ここへ来た目的を鉢屋に教えていた。 「はかぁ?」 俺の言葉を不可思議に思ったのか、鉢屋の語尾が大きく跳ね上がった。 その途端、ざわり、と騒ぎ立つ木々の気配が耳に痛い。 鉢屋もその事を感じたのか、は、っと口を噤んだ。 「…雪に埋もれていた間は、来れなかったから」 黙ったままの鉢屋にそう告げ、僅かに盛り上がった地面に視線を落とす。 陽のあたらない深奥の陰に残る雪は、けれど、もう真白くなく。 泥に戯れられ、てんてんと、落ちる斑模様。 鉢屋は、その墓に拝むこともせず、俺を哂うこともせず、ただ、一言。 「寒いな」 ぽつり、と鉢屋から零れた白は淡く渦巻いて溶け消えた。 「あぁ。けど、もうすぐだ」 「何が?」 「春」 そう告げると、鉢屋は「春、か」と、未だ暗い森に目を向けた。 (この深淵の森にも、やがて来る。生命の息吹が謳歌する緑の世界が) |