思っていたよりあっけなく
獣が呻くような声に、ふ、と意識がすくい上げられた。 (何?) 闇と同調していた景色は、目が慣れたせいか、少しずつその輪郭が明確になっていく。 唸り声に似たそれが、部屋を仕切るついたての向こう側から聞こえてきたような気がして。 なんとなく気になって、体温が移った暖かい布団から体を引きはがし、まどろみを振り切って起き上がる。 「どうしたの、鉢屋くん?」 ついたて越しに覗きこむと、薄い布団を抱え混むようにして丸くなっている彼の背中が荒く揺れていた。 心配になって、声をかけた途端、ぴくり、と彼の肩がはね上がった。 布団を握りしめる手も、ぎゅ、っと力が籠って。 「何でもない」 そう返ってきた言葉は酷く掠れていて、撥ねつけるには余りに弱々しいものだった。 「けど、辛そうだよ」 「大丈夫だから。これくらい、寝てれば治るし」 その言葉と共に漏れ出る、ひゅぅ、と乾いた息が痛々しくて。 だから、大丈夫という返事を信じることができず、彼の枕もとに座った。 コホコホ、と籠るような咳きに、ふ、と彼が狐面をつけたまま寝ていることを知る。 (…そう言えば、鉢屋くんの寝ているところ、初めて見るなぁ) 朝は僕の方が起きるのが遅いし、夜は僕の方が寝るのが早い。 用事があって僕が遅くなったとしても、鉢屋くんは布団を被っていて。 ぎゅ、っと頑なに掛け布団を握りしめる手が、僕を近づけさせないでいた。 (別に、無理やり素顔を見るつもりなんてないのに) 同室になってもうすぐ一年になるというのに、僕は鉢屋くんの素顔を見たことがなかった。 ぶかぶかと外れてしまいそうな狐の面を、いつも、ぎゅっと紐で結わいつけていて。 不気味な隈取りの面に、そこから覗く髪型はなぜかいつも違っていて。 入学当初から、何となく寄せ付けない空気があった。 まるで、そこだけで世界が完結されているような、そんな空気。 授業などでは返事くらいは返してくれるけれど、ちっとも何を考えているのか分からなくて。 自分から話の輪に入ってくることもなく、クラスメイトからも浮いていて。 そんな彼が気になっていたけれど、それ以上の関わりを持たずにいた。 --------話しかけても、鉢屋くんに拒絶される気がして、怖かった。 苦しそうな咳が闇に鈍く響き、思考を断ち切った。 喉奥に引っ掛かっているようなそれに、また、彼の息が荒くなって。 背でも撫でたら少しでもと楽になるかもなぁ、彼の布団に手を伸ばした途端、 「平気だから」 パシン、と乾いた音ともに、僕の手に熱が走った。 鉢屋くんに叩かれたのだ、ということよりも、その熱さの方が驚きが大きくて。 「あ、」と、戸惑ったような声を上げたまま固まっている鉢屋くんに、僕は大声で言い募った。 「お面は取らないから。顔は見ないから、目をつぶってるから。だから、触らせて」 「やっぱり、すごい熱じゃないか」 目を閉じていても分かる、指先を侵食してくる鉢屋くんの熱の重み。 がさり、とかさついた呼吸の荒さが掌を通じて伝わってくる。 寒気に震えた彼に、まだ、熱が上がりそうな気配を覚えて。 (どうにかしなきゃ、鉢屋くんが死んじゃうかもしれない) 「目、開けてもいい?」 慌てて目を開けそうになるのを、すんでの所で約束を思い出して、彼に問う。 自分の手を額から放したにもかかわらず、掌から離れない彼の熱さ。 僅かな身じろぎのあと、「うん」と掠れた声が変えてきた。 目を開けると、ぐったり、と四肢を投げ出していた鉢屋くんにただならぬ様子を覚えて。 「新野先生、呼んでくるよ」 立ち上がり扉へと歩きかけた僕の寝着の裾を、ぐっ、と重みが引き留めた。 それが、布地を掴む鉢屋くんの手の強さということに気がついて。 びっくりして、思わず足を止める。 また拒絶されるのだろうか、と暗澹たる思いを抱えながら、僕は鉢屋くんの言葉を待った。 「…さっきは、ごめん」 ぽつり、と揺れた闇に僕の心の影が溶け消えていくのを感じていた。 (僕は、何を怖がっていたのだろう? こんなにも簡単なことだったのに) |