※全体的に暗いというか鬱々しいです。竹久々ですが、三郎さんが出張ります。ほんのり鉢雷描写あり。




ずいぶんと遠くに来てしまった-----------。その場所に立った瞬間、そんなことを思った。遮断された、閉鎖された世界。物怖じする性格ではないはずなのに、肺を捻りつぶしたような疼痛に襲われた。落ち着かせようと、ぐ、と息を吸い込む。想像以上に空気が冷たいのは、場所のせいだろうか、それとも、自分が惧れているからだろうか。それが自分自身では分からなかった。ただ、ひどく寒いと思った。

訪ねてきたものを圧倒させるような厳つい門扉には、ごてごてとした深い彫の装飾が施されていた。一昔前の、どこか異国のお屋敷にあるかのような、そんな様相。青銅色のノッカーを手にした瞬間、「兵助様ですね。お待ちしておりました」と乾いた音が届いた。それが人の声だと、気付くのに数秒かかった。驚きのあまり思わず縮こまった指先に静電気が走った。小さな痛みに顔を顰めていると「あぁ、すみません。扉をお開けしますので、少々、お待ち申し上げます」と、先ほどと変わらないトーンの声が響いた。どこからか、こちらを見ているのだろう。ぐるり、と気取られない範囲で視線を這わせたが、監視カメラといった人工物はどこにも見当たらなかった。だが、恐らくは、素人には気づかないように張り巡らせてあるのだ。監視の目が。それだけのことが可能な技術力も財力も備わっていた。ここは、そういう場所だった。手に入れれないものは、何もないのだ。たった一つ、心の安寧を除いて。



花と屍


生まれた時から、俺はここに、この学園に来ることが決まっていた。有名な旧家の私生児。母親譲りだと言われた漆黒の髪と、透けて見えそうだ、と言われる冬の息のように白い肌の下には、どろりどろりとした血が流れている。一代では潰せれない程の額の遺産を受け取らさせないためか、それとも俺の口に戸を立てるためか(恐らくはその両者であるのだろう)、庇い手であった祖父の死後、俺は当然のようにこの学園に棄てられた。俺はここで屍のように生きていくのだろう。けれど、この学園においては、このような愛憎劇など別に珍しいものでもなんでもなかった。現世から切り離されたここで、どこから手に入れてくるのだろうか。いや、密室だからこそ、ここまで皆が知りたがるのかもしれない。ひっそりと、そして、確実に全員へと行き渡る噂には各々の生々しいまでの個人情報が溢れかえっていた。俺も「……の隠し子だ」とか「……と血縁があるらしい」とか「腹まされた女中が腹を立てて……の家の前に棄てた」など、あることないことが流布されていた。半分ぐらいは否定しなかった俺のせいもあるのだろうけど。けれど、訂正するのも今さらな気がして、面倒だった。

「兵助」
「あぁ、三郎」

人の熱でうっすらと白濁している窓をぼんやりと眺めていると、同じ寮の三郎が話しかけてきた。基本的にこの学園にはクラスというものが存在しない。学びたいことを学びたいときに学びたいだけ授業を受けることになっていた。それでカリキュラムとして成り立っているのかは分からないが、卒業後に国内外の大学に進学できるというのだから問題はないのだろう。さらに「ないものはない」と豪語する学園長の言葉の通り、普通の学科だけでなくもっと高度で専門的な内容を深めていくこともできた。専属の、つまりはプロの講師陣から学ぶこともできた。学術的な内容はもちろんのこと、芸術からスポーツまで多岐に渡っている。それが噂を呼び、莫大な入学金を積んで学園の生徒になるものもいるという。そういった奴らは、俺らを屍と呼ぶのに対し、花とこそりと揶揄されていた。三郎もその一人だった。

「この前の寮会議、なんだって?」
「あー、三郎、出てなかったっけ?」
「あぁ。芝居の稽古だったんだ」

クラスがない分、生活の単位は寮になってくる。基本的に問題があれば寮会議で自主的に解決を図るように言われている。そのため週に一度は会議が開かれていた。とはいっても三郎のように授業だのなんだのと忙しい者や海外を転戦するジュニア選手、世界中のコンクールに勤しむ者など様々な生徒がいるため、俺は未だに同じ寮の生徒全員を知らなかった。

「そういえば、何の衣装を着るんだ?」
「何が?」
「そうか、兵助は転入してきたから知らないんだな」

一人頷いて、納得したかのように完結してしまった三郎の目にはどことなく楽しそうな光が宿っていた。こういう時、つまり三郎が楽しい時というのは、碌なことがない。大概、面倒で厄介なことが待ち受けているのだ。正直、平坦な日常を崩されるのが嫌いだった。こいつには、人が嫌がっているのを楽しむ所があることを、一か月も満たない付き合いで俺は悟っていた。飄々としていて、掴みどころがない。他人の事は言えないが、何を考えているのか、さっぱり分からない。一癖どころか二癖も三癖もある奴だ。案の定「楽しみだ」と、にまにまと俺にいやらしい視線を送ってくる。それに苛立ち、「だから、何が」と語気を強めて迫ると、三郎は降参というばかりに、おどけて両の手を上げた。

「ハロウィンだよ」
「は?」
「知らないのか、ハロウィン」

珍しい生き物を見るかのような三郎の目つきと声音に「いや、知ってるけどさ」と反論し、目線でその先を三郎に促す。

「毎年、仮装パーティーをするんだ」

予想していた事だったが、改めて耳にする頭が痛くなった。それはそれは、三郎の本領発揮といったところだろう。だが、俺からしたら苦痛なものでしかなかった。一体、何でたってそんなものに踊らされなければいけない。ここは確かに異国のような世界だったが、それとこれとは別だと思っていた。サボろう、と心の中で決め込んでいると、それを見透かしたかのように三郎は含むように笑いながら「行事は強制参加だぞ」と絶望的な言葉を俺に投げつけた。









***



「兵助」

顔を上げると、薄茶色の瞳が気をもむように俺を見つめていた。風が爆ぜる音が静寂に落ちる。鞭のようにしなった細い枝が打ちつける窓の向こうには寒々とした灰色の景色がどこまでも広がっていた。世界の果てまで。

「あ……何だ?」
「大丈夫か? なんかぼーっとしてた」

観察眼が鋭いだけじゃない、妙に面倒見がいいと短期間の付き合いで知ったこの男は「顔色、悪いぞ。なんか最近、変だし」とさらに言い募った。それをかわすように「別に、大丈夫」と答え、傍らにあった本を手を携え立ち上がる。三郎だから、友達だから、立ち入らせたくなかった。

「どこ行くんだ?」
「図書館。雷蔵に伝言でもあったら伝えるけど」

そう尋ねると三郎は、いや、と口ごもった。これ幸い、と三郎を置き去りにする。



吹きすさぶ風は、まるで悲鳴のようだった。甲高い、絶叫。空を貪るような速さで黒雲が流れていく。自分が住んでいた所よりも、一か月早い、冬の訪れ。足元をじゃれつく枯葉を踏みしめると、乾いた音を立てて破裂した。最近、ますます鬱蒼とした気分に落ちていく。理由は簡単だった。冬、だ。朝起きたら、どんよりとした気だるさが胸に巣食っていて、あぁ、この季節になってしまった、と感じた。この時期になると、常に疼痛が頭の裏に貼りついて剥がれない。酷い胸やけに食欲どころか、全てに対して無気力になる。脳裏に棲まい続ける、蝋人形のような白い腕。母が消えた季節。

「こんな所、あったんだ」

街灯に誘われる蛾のように、漏れ出ていた温かな光に俺はふらりと足を踏み込んでいた。厚手の硝子で設えられた温室の中は、色が洪水のように溢れかえっていた。鮮やかな、色、色、色。まるで、そこだけ季節を違えたかのように花が咲いていた。一瞬、自分が、天国のゲートをくぐってしまったかと錯覚する。そんな所、行けるはずがないのに。

「すげぇ」

いったい、誰が手入れをしているのだろう。アシュラム、シルバ、シンプリーヘブン、フリュイテ、セントセリシア、プリンセス、アルブレヒト、ルドゥテ。甘やかな腕の記憶。そういえば、あの家もこうやって年がら薔薇が咲いていた。育てるのが難しい種類の薔薇もたくさんあった。「緑色の親指を持っている人は、人を幸せにできるのよ」と少女のように微笑む母。そんな母の、匂い。手を伸ばそうとして、

「段差っ!」
「え、…あ、」

突如として割り込んだ声に、ぱちん、と過去が弾ける。予想だにしなかった灰色の髪の少年の出現に、俺は慌てふためいて。そのまま、温室を飛び出していた。









***



絞られた照明に夜会の場は仄暗く、どことなく妖しげな雰囲気を醸し出していた。そのせいだろうか、普段ならば行事はお祭り騒ぎとなるはずが、今夜はやけに落ち着いた空気が流れている。壁やテーブルの蝋燭の焔が艶めかしい光と影を造り出していた。貴族めいた煌びやかな衣に身を包み、道化のような大振りの仮面を付けており、僅かに弧を描く口元が晒されているだけだった。他人の顔のパーツなど逐一見ているわけでもないし、誰が誰だかさっぱり分からない。人付き合いの苦手な自分は話しかけることもできず、話しかけてくる奴もおらず、かといって会場を出ていくこともできず、しかたなく、周囲の談笑を壁際から眺めていた。

「壁の花だな」

くぐもった声に体を横に向けると、全く見知らぬ男がそこにいた。滑らかなオフホワイトの手袋に包まれた両の手に、足の細いグラスを携えて。差し出された高い背のそれには洗練された装飾が施されており、壊してしまうのではないかと、そっと受け取る。錆びていく血のような色の液体が、とぷん、と中で揺れた。途端、浮かび上がった生々しい匂いに、軽い眩暈。声の記憶を探り、問いかける。

「……三郎、か?」
「あぁ。あの輪には入らないのか?」

グラスの空いた手で三郎が示した先には、柔らかな弦の調べに合わせて楽しそうに踊っている生徒たち。くるり、くるり、と花が開いていくような円舞。

「面倒だ」
「もったいない。せっかく似合ってるのに」

そう言われて、改めて自分を見下ろす。シンプルな白のシャツの上にウエストコートは光沢の違いでストライプがなされている。その上に、ダブルの六釦のジャケットの後身ごろは長い。燕尾服に近いそれで、けれども、どことなく洗練されたものに思えるのは深紅の細いリボン帯のせいだろうか。「まぁ、私の見立てた通りだがな」と自賛する三郎の通り、衣装はすべて三郎に選んでもらったものだった。一応、吸血鬼をイメージしているらしい。三郎はというと、さすがというべきか。仮面の下に特殊メイクでもしてあるのだろうか、普段の彼の面影を全く髣髴させない仕上がりになっていた。

「さてと、」

もう行くのか、と問いかけると、仮面の下から覗いた唇がゆるりと引きあがった。シニカルなそれは、三郎のものだった。

「あんまり話していると雷蔵に見つかるからな。雷蔵には内緒だぞ、私の恰好」
「雷蔵に? 何で?」
「賭けをしているんだ」
「賭け?」

仮面にはめこまれたビー玉の瞳が、銀色に輝いた。

「Happy Halloween!」

三郎はグラスを擡げると俺のそれに合わせた。カッン、と硬質な音が小さく響き、中の水面がひた揺れた。また、あの匂い。噎びく血の匂い。冷たくなっていく白い腕。ざんばらに広がった黒い髪。くらくらする。思考が奪われる。-----------匂いが消えた時には、三郎は雑踏の中に消えていた。








***



気がつけば、あの温室へと飛び込んでいた。むせかえるような色に、ぽつんとしたモノトーン。

「あ、」

あの、少年だった。あの場から逃走したことを思い出して、すぐにでも離れたいのに、なのに、足が縫いとめられて動かせれない。動けない。向こうは向こうで、どうすればいいのか、戸惑っているようだった。

「行かなかったのか? パーティー」

なんとなく無言が続くのが苦しくて、話題を探す。ふ、と彼の服装があからさまに作業に適していたものだから、そう尋ねた。言ってしまってから、不躾な問いだったかもしれない、と心の中で舌打ちする。けど、彼は意に介さなかったようで。あー、とぼさぼさの頭をかきながら「あーいうの苦手なんだよな」と、からりとした笑い声に似た明るい声で返してきた。

「兵助は、抜け出してきたって所か」
「そんな所…って、名前、なんで?」
「あーこの前、本、落としてっただろ。図書館に代わりに届けたからさ、その時に雷蔵に聞いた」

前の事を思い出し、なんとなく気恥ずかしくなって、慌てて、別の話題を振る。

「……これ、全部、育ててるのか?」

彼はぐるりと見回して、「まーな」と照れたように声を小さくして答えた。花を見つめる優しい目を、俺は知っている。重ねていいはずがないのに、どうしてだか、重ねてしまう。

「緑の親指」
「え?」
「亡くなった母が、言っていた」

吐息のような細い声が俺の名を呼んだ。「兵助」と。薔薇の匂い。母の匂い。けど、母じゃない。ごつごつとした骨太の腕。薔薇の棘で引っ掻かれたような、浅い傷がたくさん走る拳。ささくれや皸のせいか、ざらざらとした指が俺の頬を触れる。緑の親指。母じゃない。母じゃ、ない。

「泣けばいい」



彼の向こうで、屍のように白い薔薇の花びらが一つ、その身を落とした。